2015年2月7日土曜日

マブルーク・ラシュディの投稿「イスラム教徒フランス市民: 逆説的な要請」全訳

『郊外少年マリク』の著者、アルジェリア系フランス人作家のマブルーク・ラシュディが1月のパリでのテロとそれに続くフランス社会のなかでの自分のスタンスを語った一文、FBに発表されたものを、本人の許可を得て翻訳しました。ご一読ください。

イスラム教徒フランス市民: 逆説的な要請
今からちょうど一ヶ月前、シャルリー・エブド、ポルト・ド・ヴァンセンヌのユダヤ食品店、モンルージュと続いたテロは、人々の心を揺さぶり、犠牲者への共感のうねりを生んだ。僕もそれを共有し、何度か行われたパリのレピュブリック広場への集会に足を運んだ。僕はそこに、フランス人として行ったのでもイスラム教徒として行ったのでもない。国籍からも出自からも宗教からも離れた普遍的な価値を大切にする人間として行った。口に出すのも憚られるあれらの行為に、衝撃を受け、動転し、愕然としたのは、僕の本質そのものであり僕が人間に属しているからだった。
僕は集会に行ったが、シャルリーではなかった。このフレーズは、掲げるには個人的な思惑や政治的な利害からくる意味があり過ぎる。このフレーズのもとには敵対する者たちが集まって来て、自分に都合の良い意味を盛る。それは必ずしもいつも同じではなく、ときとして互いに真っ向から反対の意味だったりする。極端なところでは、死刑復活論者が臆面もなく、「シャルリー」の名のもとにシャルリーの考えとは正反対のことを言わせようとしていた。「わたしはシャルリー」は中味が空っぽの広告コピーになってしまい、あんまり空っぽなために、わずかに残った知的所有権さえ、血に飢えた者が、なんの疾しさもなく、奪い取ろうとするのだ。
僕はシャルリーではなかった。なぜなら、僕はあまりにも本当のシャルリーを、シャルリー・エブドを知っているので、シャルリーのアイデンティティが、自分自身や他人を嘲弄せずに、全員一致のスローガンに溶け込むとは思えないのだ。思い出そう、シャルリー・エブドは、ド・ゴール将軍の死を146人の犠牲者を出したダンスホールの火事に絡めて揶揄った一面で発禁になった『ハラキリ』の灰の上に生まれた。146人の死をブラック・ユーモアにしたのだよ!
僕はシャルリーではなかった。なぜなら僕は、ユダヤ人であるために殺されたフィリップ、ヨアン、ヨアヴ、フランソワ=ミシェルであり、僕はまた警官であったために殺されたアーメドとクラリサであり、僕はまた、たまたまそこを通りかかったために殺されたミシェルでもあったから。死者たちは名前も殺人者も異なる。決して、僕の目には、名前のない殺人者によって殺された漠然とした「シャルリー」ではない。
僕はシャルリーではなかった。なぜなら、僕にはシャルリーを批判する権利が、あったしそして今もあるから。少しずつ、世間には新種の冒涜罪が流通し始めている。シャルリー・エブドに対する冒涜の罪だ。この新宗教には神はないが殉教者はいて、彼らを非難することは許されず、預言者となった彼らの肖像は同情と称賛をもってしか描かれてはならないらしい。16歳の少年が、コーランを持ったイスラム教徒が銃弾を避けることができずにいる、かつてシャルリー・エブドが一面にした漫画をパロディにして、その新聞を手にしたシャルリー・エブドの漫画家が銃弾に晒されている絵を描き、「ひどいもんだ。鉄砲玉が止まらない」というコメントをシャルリー・エブド側に向けたことが、テロリズムを擁護したといって訴追されるのであれば、なにか神聖な性格があるのかと考えなければならないだろう。元のシャルリー・エブドの漫画の方は、そして僕もこの視点に異論はないのだが、表現の自由だと言われているのだから。
僕はイスラム教徒として集会に行ったのではないのに、たびたび非常に熱心に、イスラム教徒として発言するように求められた。逆説的な要請がぶつかり合う。ライシテ(非宗教性)の熱烈な擁護者にフランス人であれと促されながら、僕の宗教 − 本当のものだか想像のものだか、彼らによれば、名前が僕の信仰の土台らしい — が引き合いに出されるのだ。頭の変なやつがフランスあるいは世界の果てで殺したり、誘拐したり、大量虐殺したりするという迷惑なことをやってくれるたびに。ふたつのアイデンティティの間に衝突はないということ、それらは他のすべてのアイデンティティ、作家であるとか、郊外育ちであるとか、チュニジア料理の愛好家であるとか、他にまた何があるだろう、たとえばカーリングのファンだとかいうこととともに、互いに豊かにし合うものだと分かってもらうのは難しい。
 この逆説的な要請が現れるのは、イスラム教徒のフランス人に、声をひとつにまとめて発言するよう勧める声をあちこちで耳にするときだ。けれども、ひとつのまとまった声で発言できるフランス人のグループなんてあるのだろうか?
共和国の行進のように人を束ねる集まりですら、「フランスの第一党」(訳註 2014年5月の欧州議会選挙でフランスの首位得票を得たことを受けて、国民戦線自身が自画自賛して言ったもの)である国民戦線が、パリで予定された行事に参加しないように呼びかけた。フランス人たちがみんなでできないことを、イスラム教徒のフランス人が実現できなければならないのだろうか? そして社会のあらゆる問題に関してにこれを求められるとしたら、(なぜならこの要請あるいは願いは今日にかぎったことではないから)国民の一部がその宗教あるいはコミュニティの所属に応じてしてしか発言しないということは、心配なことではないか? 意見の多様性、それは表現の自由そのものであり、民主主義であり、それこそが共和国だ。イスラム教徒のフランス人も(すべてのフランス人と同様に)複数の声で発言し続けることをこそ望むべきなのだ。
この逆説的な要請は「not in my name」のようなキャンペーンを通じて現実化する。殺人はクアシ兄弟やブレイビクのようなやつがやっているのであって、僕の名のもとに行われているわけではないということがまるで明白ではないかのようだ。僕がクアシ兄弟を支持しないのは、哲学者エマニュエル・レヴィナスがいみじくも書いているように、すべての人間が人類全体に対して持つ集団的な責任の名においてである。だから僕はブレイビクもまったく同じように支持しないのに、おかしなことに、ひとは僕には、クアシ兄弟やその他、イスラムについての狂った思想の名のもとに犯される殺人についてしか意見を求めないのだ。
この逆説的な要請は、フランス人としての僕にも問いかける。共和国大統領のフランソワ・オランドが、サウジ・アラビアの亡きアブダラ国王の思い出に表敬したのは、僕の名においてではない。アブダラ国王は「イスラム過激派」の信奉者だ。オランドはフランスにおいては告発しているそれに、外国においては順応するらしい。
「イスラム穏健派」なるもの(この表現自体が、「イスラム」という言葉自体には「穏健」が含まれないことを前提としている)の片棒を担いで、しこたま払ってもらえる講演で弁舌をふるったり、大金持ちの独裁者たちの石油まみれの手に自らの手を差し伸べたりする連中は、われわれが擁護する価値を混同させる。普遍主義なのかご都合主義なのか? 人権なのか多国籍企業の権利なのか? 価値なのか利益なのか?
この逆説的な要請が頂点に達するのは、世界の兵器生産者と輸出者のリストを見てみるときだ。それは国連の安全保障常任理事を務める五カ国なのだ。我々は犯罪者に武器を与えて、その犯罪者と闘う警察だ(地上では戦争を通じて、また思想上では、穏やかなサロンで)ディーラー国家の共犯のもとに。フランスがその兵器の40%を、平和と人権の尊重においては評判の悪い中東に輸出しているのは、僕の名においてではない。フランスの兵器商人の最大の利益とひきかえに、平和を再建しに行くフランスの兵士たちの体の周りに熱い薬莢が散らばるのを目にする。良きイスラム教徒とは、支払うイスラム教徒なのか?
この逆説的な要請は、メディアで騒々しく発言する。そこではもう建設的な対話よりも論戦を繰り広げながらブーンとパチッとか雑音を立てることしか問題でない。衝突を好むテレビは、敵対する者たちを、しかも和解不可能に敵対する者たちを相対させて、すべてがコンパクトにまとめられ、ばらばらにして散らすことができるフレーズを引き出そうとする。ツイッターの140文字、ヴァインの6秒。マイクロプラットフォームが生み出す思想はマイクロ(極小)だが論争はマクシ(極大)だ。こうした公開討論というスペクタクルの参加者は誰もが共犯者で、相手を説得することなどもう求めず、自分の周りに支持者を固め、自分自身の聴衆を膨れ上がらせ、そうして自分の「個人的なブランディング」を固めることを目指している。誰もが、24時間テレビの情報を奪い合いながら、自分自身の責任は棚上げして、他人の責任を追求する。

僕はパリのレピュビュリック広場の集会に行った。僕は、フランス人としてでもなくイスラム教徒としてでもなくそこにいたが、フランス人として行くことも、イスラム教徒として行くことも出来ただろう。なぜなら、そうすることは、神に狂った連中によって正道を外された普遍的価値を、大切に思う気持ちと矛盾しないから。そしてまた、正道を外させたのは、ある程度まで、根源的な原則を利益と国境が求めるままにブレさせる、我々フランスの民主主義者自身でもある。僕がそこにいたのはまた、シャルリーとしてではなかったが、僕はシャルリーが発言する権利を持つために、どんなことでもするだろう。

2015年2月3日火曜日

IS人質事件で政府の責任を問う

後藤健二さんの死に深く心を痛めています。
特別な情報を持っているわけでもない私ですが、このことを書いておかないと、他のことが書けない気がするので、今日だけはこのことを書いておきます。

私はこの事件で、政府の対応を糾弾したいと思います。

「全力で対応した」と言っていますが、身代金を払うことは一度も考えたことがなく、ISILとはまったく直接交渉をしていなかったという政府に怒りを覚えます。
それはつまり、人質が殺されるのを待っていたということではありませんか。

後藤さんはジャーナリストです。危険な地域に入るのも仕事の一部です。私たちの目となるジャーナリストの自由は保障されなければなりません。「自己責任」と言う人たちは、間違っています。

湯川さんと後藤さんが人質になっていることを知りながら、安倍首相が、中東歴訪の際に、2億ドルの人道援助を「ISILと闘う目的」と名指しで不必要に強調したこと、イスラエルとの接近を見せつけたことも、慎重な行動ではありませんでした。人質の命を危険に晒した責任を問われてしかるべきだと思います。

残された家族の方々の悲しみはいかばかりかと思います。
「そっとしておいて欲しい」ということの、別の言い方でしかないのかもとは思うのですが、「日本政府に感謝」という一言を遺族の方から聞くたびに、私は変な感じがして、自分だったら言えないと思います。「ISILにパイプがあるから交渉させてくれ」と申し出た人もいたのに、無視した政府です。なんにもしないで人質を見殺しにした政府に、私は怒りしか覚えません。


私は、人質を救えなかった責任をとって、首相は辞任するべきだと思います。

2015年1月18日日曜日

シャルリー・エブドのマホメットのカリカチュアをめぐって

先週の水曜日、襲撃されたCharlie Hebdoがテロに屈せず最新号を発行した。発行部数は、700万部(増刷含む)に上るという。マホメット(日本では最近、ムハンマドと言うらしい)がJe suis Charlieの札を持って泣いている姿にTout est pardonéeとキャプションがついた表紙は、発売になる前から話題になり、賛否両論が沸き起こった。

ところで、このキャプションの訳は「すべては赦された」が正しく、日本の報道で目にする「すべては許される」は間違いだ。「マホメットのカリカチュアを描くことは許可されている」という意味ではないので、念のため(これについては1月13日付のブログに書きました)。

私自身は、この表紙には、シャルリー・エブド側からの赦し(「イスラム教が悪いんじゃない。マホメットは泣いている。仲間を殺されたけど、われわれは血の報復は望まない」というメッセージ)を読み、感動的だと思った。泣いているマホメットもキュートで、優しい笑いを誘った。

けれど、イスラム教の人に同じように伝わるかは心配なところがあると思った。イスラム教では予言者の姿を描いてはいけないことになっているということだから、マホメットを登場させたというだけで冒涜にあたるわけだし、そのマホメットにJe suis Charlieの札を持たせたのは、良く解釈してはもらえないのではないかと思った。実際にJe ne suis pas Charlieと言っている人がたくさんいるのだし。

つまり、自分の側の論理では、とても寛容で和解的なのだけれど、他者の論理ではどう見えるかに思い及んでいないのではないかと思った。自分のユーモアに対してあまりにナイーブな信頼があるように思った(同じことを意地悪く見れば「自分のユーモアを疑わない傲岸さ」になるのだろう)。

それでも、世界中で反シャルリー・エブドのデモが巻き起こり、キリスト教会が襲われたり、怪我人がたくさん出たり、死者も出るに至ったのには驚いた。抗議のデモをするのは構わないけれども、テロリストを称賛するところまで行くのは行き過ぎだ。あんなにソフトな善意のイラストでもこんなことになるのかと思うと、とても悲しい。ユーモアが通じないということがとても悲しい。

ユーモアは絶対的なものじゃない。誰にでも通じるわけじゃない。文化を共有していないと、笑いは共有できないのだ。

けれど、
「ユーモアを解する人間とユーモアを解さない人間がいるのではなくて、ユーモアが通じる人間関係とユーモアが通い合わない人間関係があるわけで、ユーモアの受容は、能力やセンスよりも、関係性に依存しているのである。」
このシャルリー・エブドの風刺をめぐって、小田嶋隆が日経ビジネスオンラインに書いていた。

「文化」と言ってしまわず、「関係性」という言葉で捉えるなら… 関係性を変えることで、ユーモアを共有できる日が、来るのかもしれない、とぼんやり思う。逆に言えば、関係性が変わらない限り、ユーモアは問題を起こし続けるのだけれど。

フランスでは今、いたるところで表現の自由とその制限の可能性について議論が起こっている。娘も中学の教室で、漫画を見せられて議論をして来た。今回の表紙の絵ではないが、シャルリー・エブドにかつて掲載された漫画をめぐって、「こういうものはさすがに発表すべきでない」という意見が、イスラム教徒でない生徒のなかからも出て来たそうだ。娘自身は、「この絵が描かれたコンテクストを考慮すれば、決してイスラム教徒に悪意のあるものではないことが分かる。ただ、分からない人もいると思う」と意見を述べて来たと言う。


昨日の報道では、週刊紙Journal du dimanche の調査によると「イスラム教徒の気持ちを害することを考慮して、マホメットのカリカチュアは雑誌・新聞に掲載しないほうがよい」とした回答が42%あった。57%は、表現の自由に制限を設けることに反対し「今後もマホメットのカリカチュアは掲載すべき」としている。


2015年1月13日火曜日

日本の新聞の「シャルリー・エブド」関係報道に重大な誤訳

連日、シャルリー・エブド襲撃事件関係のニュースが報道されていると思いますが、少々、見過ごすことができない重大な誤訳が散見されるようです。私は日本の新聞をあまり見ないので、どちらもFBでひとに教えてもらったものですが、非常に重大な誤解を生むと思うので、私からもお知らせしようと思います。みなさんもできたら周囲の方に知らせて下さい。(新聞社が自分から訂正すれば一番良いのですが) 

まず、13日の読売新聞の夕刊に出たという、水曜日に出る予定の「シャルリー・エブド」の表紙の漫画に関する記事http://www.yomiuri.co.jp/world/20150113-OYT1T50112.htmlで、問題なのはマホメットがJe suis Charlie(私はシャルリー)の札を持って泣いている絵につけられたコメントの訳です。 

Tout est pardonnéは、この記事に書かれているような「すべては許される」(ムハンマドの風刺も表現の自由)という意味ではなく「すべて赦された」という意味です。もっと日本語っぽく訳すなら「水に流そう」というような。これは「解釈」のレベルの問題ではなく、そもそもpardonnerという動詞に「許可する」という意味はなく、記事にあるような意味であればpermettre という別の動詞を使わなければなりません 。 
「ムハンマドの風刺も表現の自由」という見解は、再び予言者を登場させたこと自体のなかに明らかに示していますが、このフレーズの解釈としては間違っています。
表紙の漫画のコメントは、仲間を殺されたシャルリー・エブドの側から「憎しみの連鎖を生まないように、いろいろあったけれど、赦す」と言う非常に寛容な言葉と解釈されます。 


もうひとつはちょっと前、12日の毎日新聞に出た記事http://mainichi.jp/select/news/20150111k0000m030071000c.html 
の中の、イスラム教徒の活動家が書いたとされているツイート「私はシャルリーではなくアハメド。殺された警官です。シャルリーエブド紙が私の神や文化をばかにしたために私は殺された」。 
これのもとになったツイートは、I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so.(これは英訳ですが、私の見たフランス語も同内容でした)。私が訳すまでもなくお分かりと思いますが、「私はシャルリーではなく殺された警官のアハメドです。シャルリーは私の信仰と文化を馬鹿にし、私はシャルリーがそうする権利を守って死にました」となります。 
このツイートの意味は、「私はシャルリーには共感しないがアーメドには共感する。私はイスラムの冒涜には賛成できないが、シャルリーがそれをやる権利は守ろうと思う」ですよ。 

日本の大新聞の記者は、いつからこんなに語学ができなくなったのでしょうか。
間違いは間違いとして訂正記事を出してもらいたいと思います。

2015年1月8日木曜日

シャルリー・エブド襲撃事件と日本

 1月7日、パリ時間午前11時30分、パリの週間風刺新聞シャルリー・エブドが覆面の武装した男たちに襲われ、有名な風刺漫画家やジャーナリスト12人(警官2人を含む)警官2人が殺された事件は、日本でも報道されたと思います。
 これに関して、ハフィントンポストの記事を見ましたが、日本の人たちのコメントが「風刺画がイスラム教徒を傷つけていることに一因がある」というようなものが多く、言論の自由と民主主義への重大な攻撃だと理解するものが少なかったことにびっくりし、フランスにいる者として、一言申し上げたいと思いました。
 日本では知られていないので誤解もあると思いますが、「シャルリー・エブド」は決してイスラム教だけを標的にしていたわけではありません。カトリックもユダヤ教も等しく槍玉にあがったのだし、人種差別には反対の立場でした。
「笑い」というのは難しいもので、文化を共有していないといっしょに笑えないということはあります。フランス人のユーモアが必ずしも面白くないということは私にもあります。侮辱された気がすることもあるでしょう。でもそういうときは抗議すればよいのであって、「笑い」に殺人で対応しようとするのは、あり得てはならないことですよね。
 実際、フランスの多くのイスラム教徒は、「シャルリー・エブド」を読んで笑ったり、読んで憤慨しても平和的に抗議したり、あるいは読まなかったりしているのです。
 下に引用した朝日新聞の社説は、なんとなく優等生的だし、日本の言論の現状に対する反省をこずるく回避しているのは気になりますが、まあ、まともで安心しました。
 「戒めるべきなのは、こうした事件の容疑者と、イスラム教徒一般とを同一視することだ。そのような誤った見方が広がれば、欧米市民社会とイスラム社会との間に緊張関係をつくりたい過激派の思うつぼである。
 貧困や専制政治などによる社会のひずみから、イスラム世界には過激思想に走る者が一部いることは否めない。だが、圧倒的多数の人々は欧米と同様に、言論の自由や人権、平等などを尊ぶ社会の実現を望んでいる。」
 少なくとも、フランスのイスラム教徒の圧倒的多数は、フランス共和国の言論の自由を支持しており、テロリストといっしょにされることを望んでいません。
 今日は世界中で「シャルリー・エブド」と言論の自由を守ろうという集会があり、世界中の漫画家やジャーナリストからエールが送られました。
 日本の沈黙は、フランスに住んでいる身にはイタかったです。

朝日新聞の社説
http://www.asahi.com/articles/DA3S11541631.html

2015年1月4日日曜日

2015年、年頭に寄せて

新しい年になりました。

明けましておめでとうございます。今年もよろしく。

毎年毎年、この言葉を繰り返し、繰り返しているうちに、
いつのまにか、
私は年をとり、
世界は変わってしまいました。

年が改まったからめでたいという気持ちが、
年々、持てなくなっている私ですが、

今年も健康で、幸せに過ごせますように、と
家族や友だちやご縁のあった方々のために願うのは、
良い習慣だと思います。

2015年が、良い年でありますように。

お年賀メールやブログに添付できる写真を探していたら、こんなものが出て来ました。


去年の夏、奈良の法隆寺で、瓦の寄進をしたとき、
「なんでも願い事を書いていいのよ」と言ったら、子どもたちがこう書きました。
 
「世界平和」とは、大きく出たね!

でも今日は子どもたちのひそみに倣い、私もともに願うことにいたします。