2017年10月12日木曜日

『温かいスープ』の感想

 この文章について書こうと思ったのは、もう4年も前のことだ。当時、ムスメが日本でいう中3の年齢で、大使館でもらってきた国語の教科書に載っていたのをふと読んだ。面白かったのでそのことを書こうと思ったのだ。
 なのに書かないままもう4年… 怠け者の私の頭のなかには、こういうものが、いっぱいある。買ったのに読んでいない積読状態の本と同じくらい。
 しかし今日は書くことにしよう。ちょうど昨日、ムスコが日本語の家庭教師の先生とこの文章を読んでいたからだ。その文章とは、
今道友信先生の『温かいスープ』 (←読んでみたい方はこちらのリンクをどうぞ)。

 1957年に今道先生がパリの大学で非常勤講師を務めていたときの話だそうだ。
 現在、パリに住んでいる私が何より興味を惹かれたのは、今道先生が下宿を求めて門を叩いた家で、「戦争で義弟が日本人に殺されているので、日本人だけは下宿させたくない」と断られたというエピソードだ。

 これは隔世の感がある。今日、日本はフランス人にとっては、良いイメージの国で、「今度の旅行は日本に行きたい」というフランス人はザラにいるし、日本の漫画の翻訳量はすごい。日本のアニメやSUSHIは大人気だ。いや、私がフランスに来た1980年代だって、今ほど好感はされていなかったとはいえ、「日本人だけは下宿させたくない」などという話は聞いたことがない。1957年には日本人は嫌われていた。そういう時代だったのか、と知ったことが私には貴重だった。

 そう、この文章で断トツにインパクトがあるのは、冒頭のふたつの段落である。二つ目の段落は上に書いた下宿のエピソードだから紹介は済んだことにして、書き出しの部分はこうだ。

 第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、1945年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなくてはならない。そのような状況であったから、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日本人もみじめな時代があった。

 これはすごい、と私は思った。中学三年の教科書には、こういうことがちゃんと書かれているのだ! 恥ずかしながら私は、日本がオリンピックに出られなかったことを知らなかった。調べたら、1952年のヘルシンキ・オリンピックが日本が16年ぶりに出場できた夏季オリンピックだそうだ。
「かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなくてはならない」
 この部分がなにを言っているのか、全国の国語の先生が、きちんと中学生たちに説明しているとしたら、それはとても良いことだ。「独善的」という言葉の意味となぜかつての日本の民族主義が「独善的」だったかを先生といっしょにムスコに説明しながら、私はそう思った。

 しかし、私が感銘を受けた冒頭部分は、この文章全体から見ればイントロダクションに過ぎなかった。第一段落の結びの文は、
「その頃の体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き記しておきたい」となっていて、素晴らしい冒頭部分は、どうもただの時代背景の説明であったらしい。私はこのことを少々残念に思う。

 『温かいスープ』を改めて読んでみると、この文章のテーマは「国際性」ということであるらしい。今道先生は、第一段落で、「日本と日本人のおかれた国際的にみじめな状況」という一般論から始め、第二段落で、それをご自身のパリでのみじめな状況という例に収斂させる。そして第三段落以降で、ご自身のパリでの経験、心温まる経験を対置させる。そして最後にまた、自分の体験を一般論に敷衍して「国際性とはなにか」を結論する。こういう構造になっているのだ。ちなみに結論部分は、

 国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じらいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。           

 とまとめられていて、試験問題で「筆者は国際性をどういうものと捉えていますか」とか「筆者はこの文章で何が訴えたかったのでしょうか」とでも問われれば、間違いなくここからコピペしなければならないような文章が並んでいる。

 しかし、奇妙なことに、この味わい深く感動的な『温かいスープ』という文章のなかで、最も印象に残らないのは、明らかに、この結論部分なのだ。
 4年前に読んで面白いと思っていたこの文章、私の記憶の中の文章に、「国際性」の三文字はなかった。そんなものは、すっかり忘れ果てるほど、印象が薄かったのだ。

 その代わりに、はっきりと記憶に残っていたのは、通い詰めたパリの小さいレストランで、お金がなくて軽いものしか注文できなかった今道先生に、店の人がおごってくれた「温かいスープ」のこと。

 私にとってこの文章は、「戦後、国際的に旧敵国として日本がマイナスの評価を受けていた時代にパリに渡った貧しい留学生(講師だったというから正確には留学ではないが、そのあたりは記憶では飛んでいた)が、通いつめたレストランで親切にしてもらったお話」だった。

 私は孤独な留学生だった体験も持っているし、家族を伴わずに在外研究でパリにいた父が、味気ない自炊に嫌気がさすと美味しいもの食べたさに一人で通っていた小さなイタリア料理店で、顔なじみになり親切にされていたのも見聞きしている。今道先生がそのレストランでどんなに心和んだか、分かるような気がする。

 寒い戸外と温かいレストランの内部、街路から見たなら、ぽっと明るい灯が点っているような場所、その魂のような温かいオニオン・グラタン・スープ。それは本当にみごとなイメージで、読む者の心を暖かくする。

 なので今回、読み直してみて、結論に関してだけは、「このとってつけたようなつまらない結論はいったいなんだろう」と考えてしまった。

 結論の直前の段落は良い。

こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私がフランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。

 ここには、素直な感動が溢れている。なのにどうして、あの妙な「国際性」云々(うんぬん)の結論が続いてしまうのだろう。「国際性」という奇妙な言葉自体、定義されていないし、人情が深く沁み入る、とても幸せな体験をしたというエピソードがどうしてその不思議な概念に結びつくのか、まったく書かれていない。具体的なエピソードから、抽象的な一般論に飛躍するとき、今道先生は失敗していないだろうか。

ここは「私はそのとき、あの人たちにとって、お金のない、お腹を空かせた、馴染みのお客であって、旧敵国日本の人間ではなかった。そして縁のない親しみの持てない国の出身者であっても、そこでお腹を空かせている一人の人間として暖かい手を差し伸べてくれる人がいるということに、私は人間というものへの希望を見いだしたのである。」とでもいうような結論が来るべきなのではないかと私は思った。

 もうひとつ、疑問に思ったのはパンの話だ。お金がなくてオムレツしか注文できない今道先生のところに、ある時から給仕の娘がパンを二人前持って来てくれるようになる、という件だ。二人前持って来てくれるけれどお勘定は一人前… 
 良い話なのだが、私の知っている限り、フランスのレストランではパンにお代は取らないのだ。日本では、一食につき、ついてくるパンはフランスパン一切れとロールパン一つで、それ以上食べたいときは追加料金を取られるけれど。
 1957年には、パリでもパンにお金を取っていたのかな〜、とぼんやり考えるけれど、少なくとも私の知っている1980年代以降のフランスでは、パンはいくらでも追加してもらえる。
 なので、今道先生のところにも、パンのかごが空になっていたのでもう一つ持って来てくれたというだけなんではないかな、と思いました。


 と洩らしたところ、ムスコは即座に「でも、スープを持って来てくれたのは親切なんだよ」と返し、だから、論旨に問題はないと今道先生を弁護しました。もちろん、私もそう思っていますよ。

2017年9月11日月曜日

山尾しおりさんのスキャンダルと離党について


 昨日、ひとつ仕事が終わって時間ができたので、山尾しおりさんが不倫疑惑で民主党を離党した件について書きます。

 まず、山尾しおりさんは、不倫をしていないと私は思っています。そのことを以下に論理的に検証します。

 まず第一に、山尾しおりさんの資質です。彼女は不倫を悪だと思う倫理観の持ち主です。自民党のゲス議員の不倫を強く糾弾したという過去がそれを物語っています。
 私などは、恋愛は自由だと思っていますから、頭ごなしに「不倫は悪だ」と思いませんし、他人の不倫を責めたりはしません。他人の不倫を責めるような人が自ら無防備にダブル不倫なんか、するでしょうか? 
 するとしたら、人生変わるような灼熱の大恋愛ということになります。しかし、まあ、そういう雰囲気はありません…
 どなただったか名前をメモしておきませんでしたが、民進党の同期の男性議員の方が、「同期で一番、やらなさそうな人だ」とコメントしていましたが、この方のおっしゃることが正しいのではないでしょうか。

 第二に、時期の問題です。民進党は代表選があり、執行部が変わって、彼女はこれから幹事長になる予定でした。そういう仕事上最も大事な時期に、不倫相手と週4回、密会をするでしょうか? そんな大事な時期に恋に狂っていたのでしょうか? あまり辻褄が合いません。
 私は山尾しおりさんは、倉持麟太郎弁護士と、本人たちが言っている通り、仕事上の打ち合わせをしていたのだろうと思います。これから幹事長になる、民進党をどう導いていくか、どういう政策を打ち出すか、具体的にスピーチ原稿をどうするか、相談していたのではないですか? だからこそ、よりによってこの時期に週に4回も会っていたのでしょう。そう考えた方が分かり易いと思います。

 第三に、「脇が甘い」とみなさんがおっしゃっているように、不倫スキャンダルがあまりに簡単にすっぱ抜かれたことです。恋愛でなかったからこそ、そこまで無防備に会っていたのではないですか? 
 幹事長になろうという大事な時期に、不倫スキャンダルなど起こったら大変なことくらい、山尾さんが分からないはずはありません。だから、不倫だったらちゃんと隠したことでしょう。疾しいところがなかったからこそ、警戒を怠ったのではないでしょうか。
 疾しいところがないというだけで警戒を怠ったこと、傍目にどう見えるかを考えなかったことは、たしかに不覚でしたが、不倫とあまりに縁がない性格だったが故の不覚だったたと考えると納得がいきます。そのことはご本人が今、死ぬほど悔しがっていらっしゃるだろうと推察します。


 もちろん、お二人が仲が良かったのは事実と思います。それに「遠くて近きは男女の仲」と言いますから、元々はその気でなくても、男女が二人きりで長時間いっしょにいる間に、ひょっこり、なにか起こってしまうことまでは否定できません。
 でも、たとえそうだとしても、彼らが会っていた主な目的が仕事であることは変わりません。百歩譲って何ごとかあったとしても、それは出来心で、家族にきちんと謝罪すれば済むような問題だと思います。仕事を抛り出して逢引していたというのとは全く違うのだから、民進党や世間様に対しては負うべきなんの責任もありません。

 それにもかかわらず山尾しおりさんは離党しました。その理由は、民進党に愛想を尽かしたからだと私は思います。幹事長になって、ぱっとしない民進党の立て直しのために持てる力を尽くして頑張ろうと思っていた矢先、「お前の不始末で選挙が闘えない、迷惑だ、辞めてくれ」という声が、聞きたくなくても耳に入るくらい鳴り響いて、幹事長を打診して来た新代表も守ってくれないという状況になったら、「ああ、そうですか。ご迷惑おかけしましたね」と悪態ついて党を去り、決着したくなったのでしょう。私だってそうしたと思います。

 そういうわけで、いきさつは面白いものではありませんでしたが、私は、山尾さんは民進党を離れて良かったと(政治素人の見解かもしれませんが)思っています。
 民進党はあまりにも負の遺産を背負った沈む船だと思うからです。代表選でも明らかになったように方針もまとまらない人々の寄せ集めですし、優秀な若い女性議員に嫉妬して、脚を引っ張るような人たちの集まりだということも今回のことで分かりました。山尾さんの力を持ってしても立て直すのは容易ではないでしょう。
 山尾しおりさんは、民進党の看板を背負っていなくても、自分の名前でやっていけるだけの実力のある政治家だと思います。泥船の民進党は離れて、ご自分の名前の旗の下に、政見を同じくする人々を集めて動いたほうが自由に動けるし、実際、うまくやれば、小池百合子のなんとかファーストをも吹き飛ばすくらいの風を吹かせることができるでしょう。時代の風は、既存政党ではなく、既存の政治を破る新しい勢力の方に吹いています。そういう方向で、山尾しおりさんには頑張っていただきたいです。

 山尾さんの力を日本の政治を変えるために使っていただいてこそ、倉持麟太郎弁護士と共にやってきたことも生きてくるのだと思います。不倫が真実であったかどうかは、山尾さんの今後の仕事が明らかにしてくれるでしょう(幹事長就任という時期に恋愛を優先していたとすれば、そのような人は、幹事長になろうがなるまいが、今後、たいした仕事はしないでしょうから)。そして、国民のために一生懸命働いて、政治家として良い仕事をしてくれるのであれば、一夜、あるいは四夜、夫と子どもを置いて外泊しても、一国民としては、ありがたくこそあれ、非難するようなことではない。国会議員として、権力を不当に使ったり、私腹を肥やしたりせず、国民のためになる仕事をしていただけるのであれば、それ以外のことは、何を食べようが、何を着ようが、どこに泊まろうが、誰と寝ようが、私ども国民としては、まったく関知しない、関知する権利もないということを申し上げたいと思います。

 どうぞ今回のことは、人間万事塞翁が馬、禍転じて福と成していただきたいと私は期待しています(山尾しおりさんがどこかでこれを読んでくださると良いと願っています)。
 

2017年6月14日水曜日

委員会採決抜きに唖然

私は本当にあきれています。
参議院で与党が、共謀罪を新設する組織犯罪処罰法改正法案を成立させるために、委員会採決を省略して中間報告の後、本会議で採決という暴挙に出たと知ったからです。

そんな最低限の手続きすら経ないで成立した法が有効になるんでしょうか?

共謀罪の審議は、可決できるような状態ではありません。審議すればするほど、法案はぼろが出ているので、議論を踏まえてまともに採決したら否決されるのが当然。なのに可決するのは、与党議員が数に任せて、議論を無視して賛成票を投じるからですが、だからといって、議論もまともに行わず、踏むべき手続きも踏まずに採決とは!

論理的に考えれば、そんなことをやるのは、いろいろ後ろめたいからですよね。
自信のある立派な法案だったら、会期延長して説得し、反対の人にも納得してもらってから採決したらいいじゃないですか。
加計問題や森友問題、レイプ事件問題などでも、後ろ暗いところがないのなら、会期延長して証人喚問をやり、正々堂々、疑惑を払ったらいいじゃないですか。
それを議論もちゃんとしない、証人喚問もしないで国会を早く終わりにしてしまいたいというのは、きちんと検証したらまずいことばかりだからということでしょう。


こんな内閣、与党を支持するのは、もうやめにしませんか?

2017年6月12日月曜日

共謀罪に反対します

 私は共謀罪に反対です。

 自分のブログに書くという基本的なことをやっていなかったので、急いでこれを書いています。13日本日、参議院で「共謀罪」(「テロ等準備罪」と言い換えていますが実質は、過去3回も廃案になった「共謀罪」と同じもの)を新設する組織犯罪処罰法の改正法案が委員会採決されるかもしれないという情報を見たからです。

 ご存知と思いますが、もしかして知らない方のために簡単に紹介すると、この組織犯罪処罰法は、「組織的犯罪集団」が犯行を計画し、メンバーの一人が準備行為に及んだ段階で、それ以外のメンバーも処罰できるようにするという趣旨のものです。

 この法案には大きな問題があって、それは、まだ犯罪が行われていない段階で、犯罪を計画したというだけで処罰の対象にされることです。そうなると、普通の行為と犯罪との境界が非常に曖昧になります。
 また「組織的犯罪集団」についても明確に限定されていないので、「一般人は対象外」ということが成り立ちません。

 つまり、誰が何を「犯罪行為」や「組織的犯罪集団」とするのか、とても曖昧なので、拡大解釈されて、言論の自由や人権が損なわれる大きな危険があります(と言うより、取り締まりたい人を取り締まるのにとても好都合な法律を作ろうとしているとしか考えられないくらいです)。

 このような重大な危険性のある法案であるため、「共謀罪」は過去3回も廃案になってきました。
 しかし、そういう「共謀罪」を「テロ等準備罪」と言い換えて、政府はまた持ち出してきました。「これは善良な市民には関係のない「テロ」対策だ」と言って、2020年の東京オリンピックを無事に開催するためにはこの法律が必要、また国連の「越境組織犯罪防止条約」に加入するためにはこの法律が必要だと訴えたのです。

 しかし、越境組織犯罪防止条約(パレルモ条約)のためというのは噓で、この条約は、物質的経済的な目的がある組織犯罪集団、例えばマフィアや暴力団対策のための条約で、宗教的、イデオロギー的な目的に基づく犯罪行為を除外していますし、テロを対象としたものではありません。
 テロ対策自体に関していえば、国連が作っているテロ対策に関する10余りの条約について日本は全てを批准しています。国連が推奨している国内法におけるテロ対策の法整備は既に済ませていて、爆弾の製造、核物質の拡散、ハイジャックなどについては、予備罪、共謀罪を処罰する法律が既にあります。

 「共謀罪」の創設は、テロ対策よりも、政府に都合の悪い言論や活動を取り締まるためにこそ有効であるように思われます(共謀罪が成立したらこれを使う立場になる警視庁の組織犯罪対策部長が、詩織さん事件で山口容疑者逮捕に待ったをかけた中村格氏(当時警察庁刑事部長)、古賀茂明氏が報道ステーションでI am not ABEを訴えたときにクレームをつけてきた中村格氏(当時菅官房長官の秘書官)であることを考えると、どういう風に使われるか想像できてしまいませんか?)。「共謀罪」は、平成の治安維持法とも言われます。政府に都合の悪い団体を弾圧するために拡大解釈して使われた治安維持法の再来を許さないために、絶対に成立させてはいけない法律なのです。
 

 国連の人権理事会でプライバシーの権利を担当するケナタッチ特別報告者が、「個人のプライバシーを守るための措置が盛り込まれていない」と懸念を安倍首相宛書簡で表明しています。政府は、この書簡に誠実に答える形で、法案を練り直すこと、現在国会に提出されている法案は廃案にすることを、国会議員の方々にはお願いしたいと思います。