『郊外少年マリク』訳者あとがき


訳者あとがき

 

ここに訳出したのは、新しいフランスの作家、マブルーク・ラシュディ二作目の小説、『Le petit Malik』の全文である。

このタイトルは実は、フランス人なら知らない者はない『プチ・ニコラ』、ルネ・ゴシニーの文とジャン=ジャック・サンペの絵で有名な短編連作シリーズを下敷きにしている。いたずらっ子ニコラ少年の一人称で、学校や家庭での出来事をユーモアたっぷりに描いたこの作品は、一九六〇年代前半に書かれ、現在まで読み継がれている。『プチ・マリク』は、これの現代版というわけだ。あまりにも有名なサンペのかわいいイラストの向こうを張って、『プチ・マリク』原本には、フランスの本には珍しく表紙にも章扉にもイラストが、それもかわいくないところがかわいいというような悪ガキのイラストが、漫画家エルディアブロの筆で添えられている。

しかし、マリクはニコラではない。

前フランス大統領と同じ名前を持つ少年はパリのプチブル家庭の坊やだが、こちらの語り手兼主人公の名はイスラム系。事実、マリクはアルジェリア系フランス人、一九六〇年代にはいなかったような、新しいタイプのフランス少年なのである。

というような内容がオリジナルのタイトルには込められているのだが、残念ながら『プチ・ニコラ』は、日本ではいまいち知名度が低い。マリクが移民系の名前だなどと知っている人は、さらに少ないだろう。というわけで、日本語のタイトルが『プチ・マリク』では、多くの潜在的な読者が、何ひとつイメージできずに本の前を素通りするという事態が懸念された。そこでタイトルそのものを翻訳するような気持ちで、本書のタイトルは『郊外少年マリク』とした。

「五歳」から「二十六歳」まで、年齢をタイトルにした二十二の章は、『プチ・ニコラ』と同じように、それぞれ独立した短編として読める。しかし「二十六歳」まであるのだから当然だが、延々と子どもの話が続くわけではない。テンポのよい語りと面白おかしいエピソードにつられて、笑いながら読み進むうちに、郊外の団地に生れた子どもが、どんなふうに大人になっていくかが、遠いところにいる読者にも、次第にはっきりと、そして切なく分かってくる。ここへ来て作品は、『プチ・ニコラ』のパロディの枠からふっと外れて行く。

さて、郊外の団地とはなにか。

一九六〇年代、戦後の高度成長をバックに、都市に流れ込んだ新住民を吸収すべく、互いに同じような形をした集合住宅がたくさん建ったのは、日本の大都市郊外も同じだ。あれによく似てもう少し高層のものが、フランスにも同時期に同じような場所に建設された。しかし、日本の団地に移り住んだのが、戦後のサラリーマンの急増を背景にした、新興ホワイト・カラー階級だったのに対し、都市型サラリーマンの創出がすでに第二次世界大戦以前に終わっていたフランスでは、団地に入居したのは、工場労働者として歓迎された、旧植民地からの移民労働者だった。日本では水洗トイレやベランダを備えた集合住宅は、新しくモダンなものとして、「洋風の生活」への憧れの対象ともなったが、フランスの団地にはもともとそんなオーラはなかった。

六〇年代から七〇年代にかけて多く建てられたこの種の集合住宅は、日本でも現在、老朽化して建て替えが難しかったりしているが、フランスではもっとずっと悲惨な道を辿った。高度成長時代に歓迎された移民労働者は、一九七三年のオイルショック以来、厄介者扱いされるようになり、解雇の憂き目を見る者も多かった。彼らは、老朽化していく団地から出て行くすべもなく、その団地は改装、修復もされないまま、家賃が低いために低所得層が集中する場所になって行く。高等教育を受けていない移民の労働者あるいは失業者を親に生れた子どもたちは、学業にハンディ・キャップを抱えることが多く、しばしばドロップ・アウトする。フランスは資格社会なので、学歴がないと就職は非常に不利だ。フランスの失業率はおよそ一〇%だが、郊外だけをとって見ると場所によって三〇から五〇%と、その他の地域との差は歴然としている。そういう場所で、ドラッグの密売その他のいかがわしいビジネスが発達する。それがなければ経済の成り立たない地域でもあるのだ。マリクが生れ育ったのはそういう環境だ。

二〇〇五年のフランスの暴動、車が焼かれていると連日テレビで報道されたあの事件で、「郊外問題」を知った人も多いかもしれない。郊外の若者の不満が爆発したあの事件が過ぎて、メディアは何も言わなくなったが、状況は何一つ改善されたわけではない。マスメディアは、大事件があったときだけ集中してその話をし、火が収まればまったくその話をしなくなる。けれど、それはどちらも間違いだ。『郊外少年マリク』が私たちに教えてくれるのは、郊外には深刻な問題があり、深刻な問題を抱えたまま、なんの変哲もない日常が流れているということだ。事件になるかならないか、深刻なことになるかならないか、犯罪になるかならないか、それは紙一重なのだ。

たとえば「十八歳」で、魚屋ボリスが持っていたのはたまたま砂糖だけれども、それがもし本当にドラッグだったら? 警察は少年たちをどうするだろう? 恵まれない環境にいると、重なる不運が大事故をひきおこす。どんな些細なきっかけで、盗みが常態化していくかが書かれた「十四歳」。すわ、集団強姦かとギョッとさせる「十七歳」。「十八歳」の「なんでもないもののために犯された三つの犯罪」は、軽いことから犯罪に陥っていく少年たちの構図を淡々と示唆している。学校をドロップ・アウトしたアブドゥは盗品の売買に手を出し、オーバードーズで命を落とす。「二十一歳」では、マリクが仕事をするときマルクと名前を変えるように言われるが、それも冗談ではない。実際、履歴書の名前がヨーロッパ人風でなくアラブ風、アフリカ風であるだけで、面接に呼ばれる確率はがくんと低くなるのだ。

優れた文学はこうして、緻密な研究や詳細なルポルタージュでも外郭をなぞるようにしか伝えられないことを、読者の知性と感性の双方に訴えて理解させてくれる。ふつうの人間がふつうに生きていていつのまにか落伍者になってしまうメカニズムや、恵まれない環境で育った人間がその環境に埋没してしまう悪循環の心理を、ラシュディは、手にとるように描き出す。けれど、それは「悲惨」や「問題意識」一色に塗られたものではなく、声高な「告発」でも「怒り」でもなく、それらすべてを笑い飛ばすユーモアに包んでだ。その陰には弱者への優しい眼差しと状況を自分でコントロールしようとする勇気がある。

この作品は、物語やプロットを持った、いわゆる小説とは異なり、郊外の少年をテーマにした独立したスケッチが、緩く繋げられたものだ。その一編、一編のテクスト内部の緊密さは、短編小説を、いやそれ以上に散文詩を思わせる。 もちろん、伝統的な詩が雅語を連ねるのとは正反対に、俗語、卑語のオンパレードではある。しかし、ただの説明的な文章、また論説的な文章を一切含まず、洒落や地口、遊びに満ち、リズムや省略によって多くを語るテクストは、小説以上に言語の芸術性に軸足を置いた、詩に近いものだろう。

その分、リアリズムの小説としては、時系列など、実は厳密さに欠ける。おおよそ一九九〇年代から二〇〇〇年代のフランスの雰囲気を背景としているが、マリクが何年に生れて何年に二十六歳になった、という風なリアリスティックな設定はされていないので、通貨がユーロに変わった後に五歳ということは、などと律儀に数えると計算が合わなくなる。「新しい大統領」もシラクではなくてサルコジを指すと思ったほうがよい。章タイトルの年齢も、内容と完全に対応しているわけではない。アイスクリーム売りブリュノの全盛期と没落が、すべて一年のうちに起こったはずはないし、郊外の少年たちが就学前の五歳で計算が出来たと思うのも非現実的だ。アブドゥの両親が通っている教会にしても、漠然とキリスト教の一派と理解しておけば良く、特定は不可能だ。「福音教会」はプロテスタントなのに、「実体変化」はカトリック用語なのだから。

さて、俗語、卑語と言ったが、これを抜きにして郊外の現在は書くことができない。実は、移民が雪崩れ込んだフランスの郊外は、ここ三十年の間に、新しい言葉が泉のように湧き出ている場所なのだ。今は使われなくなった隠語に新しい命を吹き込んだり、新語を作ったり、アラビア語、ベルベル語、英語からの借用をしたり、シラブルをひっくり返したりして、非常に多くの言葉が生れている。今や、郊外のしゃべり方は、ラップやインターネットを通して、若者の先端的なファッションを牽引している。文学は、言葉を素材とする芸術であるから、当然のことながら、郊外からは、今、一番イキの良い文学が現れるわけだ。多くのラップ歌手が最近、文筆の領域に出始めているが、マブルーク・ラシュディは間違いなく、同じ文化的土壌から生れている。辞書に載っていない「郊外言葉」に訳者は泣かされたけれども、これをなんとか訳出できたのは、あたりはばかるような罵倒語なども無邪気に発音しては、「これ、どういう意味?」と質問した訳者に、懇切丁寧に説明してくれた著者のおかげである。

しかし、意味は分かっても、今度は日本語にするという難関が待っていた。

 郊外言葉のなかには日本語にできずに意味しか伝えられなかったものも多く、また出版社の方針に従い、不適切とされる表現はなるべく避けたが、原文のニュアンスが、それほどには損なわれていないことを期待する。過激と受け取られる可能性のある表現もいくつか、訳者の判断と責任において残した。原文を生かすためとご理解いただきたい。

 この翻訳のために協力を仰いだ人々は枚挙に遑がない。サッカー用語が分からずお手上げになってしまった私に救いの手を差し伸べてくださったフランス・サッカーに詳しい文芸評論家の陣野俊史氏、日本語にならないフランス語を日本語にする素晴らしいアドバイスをいくつもくださった、フランス在住の翻訳家、大関達哉氏、最懸案事項の数々をいっしょに考えてくれた作家で妹の中島京子、キリスト教の宗派や教義について、示唆に満ちた説明をしてくださった武田順児氏(キリスト教系大学院博士課程在学中)、この人たちの協力なしには現在ある訳文にはならなかった。また、原文を見ていないのに原著の誤植を指摘して、原著者をびっくりさせた優秀な日本の校正陣、そして私に解釈の疑念が浮かぶたび、確認につきあってくれたフランス人の夫とバイリンガルの息子、これらすべての人が翻訳文に貢献している。

この本が出版にこぎつけるまでには、たいへんな困難があった。内容の魅力を重視して出版に尽力してくださった集英社編集部の方々に感謝する。後は、一人でも多くの読者のもとに届くのを願うのみである。

 

 

二〇一二年八月三十日

 

                              中島さおり

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