2014年3月22日土曜日

『私の欲しいものリスト』とブラスリー「モラール」

ちょっと前、2月初めのことですが、去年の夏前からやっていた仕事が本になりました。

 
グレゴワール・ドラクールのベストセラー小説、La Liste de mes envies の翻訳、『私の欲しいものリスト』(早川書房)です。宝くじに当たった40代後半の女性が主人公。180万ユーロ〈2億5千万円くらい〉当たったら、自分ならどうするか、考えながら読むのも面白いと思います。まだ新刊で出ているので、本屋さんで見てみてください。

さて、そのヒロインが、お金があったら、亡くなったお母さんに何がしてあげたいかと考えながら、連れて行きたいと思ったパリの「牡蠣で有名な」ブラスリー、「モラール」。ひょんなことから、その店に昨日、行きました。
 

先週、私の音楽の先生が「これ、行かれないから」と差し出したコンサートの招待状。ちょうど誕生日で、夫の事務所のすぐそばにあるブルガリア文化センターなのでありがたくいただいて来ました。ひどくお手軽なお出かけになりましたが、ベートーヴェンのソナタ27番とシューベルトのソナタD960を聴いた後、「この近くならあそこかな」と夫が連れていってくれたのが、耳に覚えのあるお店だったのです。

牡蠣はきれいな緑色をしていてとても繊細なお味。牡蠣の好きだった父を思い出しながらいただきました。

 




クリスマスに家で食べたのよりも大きなオマール、カナダから来たそう。



デザートはシュークリーム。これもお父さんの好物だったなあ・・・ 小ぶりとはいえ、4つはさすがに無理。2つでお腹いっぱいになりましたが、美味しいので3つまで食べて降参。昼にプールに行って運動した分がチャラに。




前にも連れて来たことがあると夫は言うのですが、私はまったく覚えていません。『私の欲しいものリスト』に出て来たことですっかり嬉しくなった今回はしっかり記憶に刻みました。
アールヌーヴォーの内装も有名だそうです。
 
 
 

2014年3月11日火曜日

飛行機が飛ばなかった夜


 32日の夜10時ごろ、東京から昼の便でパリへ戻るはずだった私は、乗った飛行機が整備不良で、何時間も座っていた挙句に降りる羽目になり、送り込まれた日航ホテル成田の中華レストランで定食を食べていた。

 テーブルには娘と息子のほかに一人、穏やかな笑顔の女性がいた。いったんは預け入れたスーツケースをまたずるずると引き取って、ホテル行きのバスを待っているとき、「よかったらこれ、いかがですか、お子さんたちに」と、おにぎりを分けてくれた優しい人だ。「子どもに持って帰るつもりで買ったんですけど、明日になると食べられないから」。彼女はそう言ったけれど、それがたった今、わたしたちのために買って来てくれたおにぎりであろうことは私には分かった。機内で混乱していたとき、家族に電話したいという彼女に携帯電話を貸してあげたので、お礼のつもりだったのだろう。搭乗前に空港のレストランで食事をしてから、もう8時間は経っていた。私はありがたくいただいた。

 そんな縁で、もう今にも閉まりそうなレストランで、夕食をごいっしょしていたのだった。うちのよりも年上の子どもを三人、ドイツで育てたという女性だった。子どもの日本語や学校のことで話ははずんだが、そのうちに、ちょうど今回の日本滞在中に起こった、東京の図書館でのアンネ・フランク関係の本のページが切られる事件が話題になった。

― 私はどうも、あれは最近の日本の右傾化を快く思わない人たちが、警告のためにやっているんじゃないかと思うんです。

 私は一瞬、なんのことやら分からなかった。

― それはまたどうして?

― 3年前の震災以来、日本は右傾化していますでしょ。私自身、自分が右傾化したなと思うんです。日本人がほんとに辛い目にあって、がんばっている。それでもう、昔のようではいられなくなりました。

― というと?

― ほら、昔はね、学校でも教えられたし、日本は中国や韓国の人に悪いことをしたって。そう思ってましたでしょ。そういうふうに簡単に思えなくなりました。私たちだって必死なんです。でも、そういう傾向に反感を持つ人たちが、外国に知らせようとしてやっているんじゃないでしょうか。

― ???

― 慰安婦問題をナチスと同じのように言うでしょう? でも、慰安婦問題はナチスとは違うんですよ。

― それはまあ、違うでしょうね。

― でも同じだって言う人たちは、慰安婦問題のことで日本をナチスと同一視して。

― けれど、アンネの日記を切り刻むのは、外国人に対して排外的なナショナリストがやっている、と考えることもできるのでは?

と、私は言ったけれども、確信はなかったし、その話題はそこで切り上げた。

 彼女の話は私に深い印象を残した。

 論理的には間違っている、なんだか滅茶苦茶なような気がしたけれど、なにか私の知らない真実を明かしているような気がしたのだ。

 ひとは誰でも気の合う、話の通じやすい相手を自然と選んで友だちにするので、ふと気がつくと自分と感じ方、考え方の似た人間ばかりに取り囲まれている。不思議なことに、20年、30年も音信不通だった友だちでも、再会するとやはり話は通じやすく、まったく意見交換していなかったのに、昨日別れたばかりのように共感できたりする。そんなことにばかり出会っていると、自分とまったく感受性や思考パターンの違う人間がいることを忘れてしまう。ひょっとすると、自分たちのほうが、少数派であるのかもしれないのに。
 飛行機が欠航になって成田のホテルで一夜を明かすような機会でもなければ、こんな話を聞けることはまずないのだ。

  9・11がアメリカ人の間にナショナリストな感情を惹き起こしたように、3・11は日本人をナショナリズムに向かわせたのかもしれない。そう、私だって、あの日、津波にさらわれた同国人、個人的には誰一人知人のない同国人のために涙を流した日以来、原子力災害を抱えた母国を見つめて以来、私の出身国のことを、以前より余程考えるようになった。自分を日本人だと思い、住んではいない私の国のことを深く心配するようになった。あの日、私にとって、世界は変わってしまった。

 私はナショナリストになったわけではないが、同じような母国への絆によって、ナショナリズムの方に引き寄せられた人たちが沢山いるのかもしれない。それはどこかでなにかが間違って繋がってしまったのではないかと、私には思えるのだけれど、それはそれでよくあるパターンなのかもしれない。

 数日後だったか、斎藤美奈子がコラムで「自虐は余裕のあらわれである」というようなことを書いていた。なるほど。「自虐史観」は余裕の表れであったのか、と思った。「自虐」ではなく「自己批判」だと私は思うけれども、それは措く。長く不況に襲われた末に地震・津波という最大規模の自然災害と原発苛酷事故という未曾有の人的災害に見舞われた日本は、自分を批判的に見つめる余裕を失ったということなのだろうか。

 そういう面はあるのかもしれない・・・ 

 私はそんなことを私に考えさせてくれた彼女のことを思いだす。彼女はほんとうに優しい良い人だった。私たちに遠慮させないようにと、「明日になったら食べられないから」などと口実を作るような、心遣いの細やかな人だった。そういう人が、「慰安婦問題でいつまでも悪かったと言わされるのは嫌だ」「日本は悪くない」と、世の右傾化を歓迎する心象を持っているのか、と、私は驚きのような悲しみのようなものを感じたのだった。

翌日、経由したモスクワ空港で。BURGER KING と書いてある。