『郊外少年マリク』 解説


 解説                                                中島京子

 

 アイスクリーム屋のブリュノは、ちょっとだけ頭が弱い。客の好みのフレーバーはぜったい忘れないのに、計算は大の苦手。町のみんながブリュノからこっそり釣り銭を多めに巻き上げていたからさあたいへん、アイスクリーム屋は潰れ、ブリュノは文無しに。ところが気のいいブリュノは町の人々を恨みもせずに、悲惨な状況を自力で打開すべく、血迷って考え出したのは銀行強盗、しかも手にしたのは水鉄砲!

『郊外少年マリク』は、のっけから無声映画のコメディみたいな、泣き笑いのエピソードで幕を開ける。

郊外ってなんだ? どうして出てくるやつ、出てくるやつ、貧乏なんだ? そしてなんだってみんなこんなに口汚いんだ?

という素朴な疑問は〈訳者あとがき〉で解決していただくとして、このやんちゃで可笑しくて物悲しく詩情あふるる物語を、あまり余計なことを考えずに楽しんでいただけたらと思う。

五歳から二十六歳、ぶっきらぼうに年齢だけが章題として付せられた断章の連なりは、語り手マリク・ドリッディの成長譚だ。それぞれのエピソードはスケッチのようでもある。一つの町の話だから、登場人物が重なっていて、彼らも語り手のマリクと同じように年を取る。短い章の積み重ねなのに、紛れ込んでいる情報(それは物語のおもしろさだけではなくて、揺さぶられる感情の振れ幅や、使われている言葉が持つ意味の複雑さや強さなども)が多いから、軽快な読み心地なのに、読み終わるとしんとした重さが残る。そしていつのまにかマリクやブリュノはもちろん、友達のサロモンやアブドゥやトンデモDJのムッサ、「ババアとやってろ」のアリム、海好きのタリク、スーパー警察官ブアレムなどの面々が、胸の中にどっかりと居座っているのに気づくだろう。

そして二十五歳のマリクが雨にけぶるセーヌ河をタリクと二人で見つめながら自問したように、マリクの胸をよぎるあれこれを、思い返さずにはいられなくなるだろう。

サッカー。

団地。

喧嘩。

母さん。

オナニー。

初めての恋。

孤独。

あまりにも善良であまりにもおバカだったブリュノ。

マリク、サロモン、アブドゥ、ひとつの手の三本の指――。

こういう読後感を味わわせてくれる小説は、ありそうでいて、そんなに多くない。会ったこともない、出会うはずもない世界に住んでいる男の子の話が、まるで親しい友達の物語のように思えるこの感じは、すぐれた少年少女小説、すぐれた青春小説だけが伝えることのできるものだからだ。私たちはみんな、五歳を、十二歳を、二十五歳を経験する。世界のどんな場所でも。金持ちでも貧乏でも、男でも女でも。幼年期や思春期や青年期に経験する感情の襞を分け入るようにして、マリクの世界は読み手の中に入ってくる。

たとえばこの小説の中で描かれる「十二歳」と「十三歳」の決定的な違い。「十二歳」はマリクにとって幼年期の頂点だ。明るく、輝かしい、サッカー少年の勝利の瞬間。でも「十三歳」を境に、彼はいままで気づかなかったことに目を向けはじめる。「お気楽の黄昏」がやってくる。無邪気に信じていたものが揺らぐ。マリクは子供ではなくなりはじめるのだ。

同じような変化がたとえば、「二十歳」にも描かれる。小学校に入学するマリクを閉口するほど着飾らせたシングルマザーの母、家事上手で自慢の種だった母、マリクに「お気楽の黄昏」が訪れても相変わらずきれいだった母が、成長した息子の前で無防備にあらわにしてしまう、ただのつまらない女である姿。

十三歳は思春期の入口だし、二十歳はもう大人だ。私は自分が十三歳になったとき、十二歳とはとても違う者になってしまったと感じたのを覚えている。大人に近づけば近づくほど、現実は爪を立てるようになる。青春がいつも、どこでも、痛々しいのは、まだやわらかい肌にそれが食い込むからだ。

マリクの人生に立ち現れるいろいろなことは、フランスの、郊外の、移民社会の中でこそ起きる事件だから、読者としては私たちの知らないパリ郊外の生活を見せてもらう意味や楽しさもそれはたくさんあるのだけれど、(だって、「パリ」といって思い浮かべるものは、なんだかこうオシャレだったり文化的だったり、スノビッシュだったりするような感じがするでしょう? それなのにマリクの住む「郊外」ときたら、日本人のイメージする「おパリ」とはほど遠い場所なんだから!)その物語が私たちに沁みてくるのはそれが「郊外の話だから」ではなくて、そこが、私たちの知っている感情がいっぱい詰まっている場所だと知るからなのだ。

少しだけ「郊外」を知っている人は、ひょっとしたら「暴動」なんて言葉を思い浮かべるかもしれない。2005年に起きたフランス暴動は、「車がばんばん燃やされています!」というTVリポーターの言葉と火に包まれた路上のイメージとともに、記憶に残っている可能性がある。そして、「暴動」からの連想で、「移民問題」「民族問題」「失業問題」「宗教対立」と、難しい四字熟語をいっぱい並べて眉間にシワを寄せてしまうかもしれない。

そういう方にはぜひ「十一歳」を読むことをお勧めしたい! このギャグとスラップスティックな笑いに満ちた一章は、生粋の郊外っ子である著者が、「郊外」と「暴動」を機械的に組み合わせてしまう外から見たイメージを逆手に取って、徹底的にシャレのめし、笑いのめし、弾き飛ばした出色の章である。このスピード感とグルーヴ感、疾走して溢れ出す言葉の洪水は、読む者を圧倒する。

この小説を日本人として初めて読んだ人間として、「フランスとは」「郊外とは」「移民とは」「民族・宗教の違いとは」なんてことをしゃっちょこばって考えなくても『マリク』は読者の心をわしづかみにする作品であると断言する。いやむしろ、そんな小難しいことが書いてあるんだと聞かされたら、マリク自身がびっくりして逃げ出すだろう。

でも、難しいことを知らなくても、マリクの生きている地域がけっして生き易い場所でないことはわかる。経済的な苦しさははっきりと描かれるし、マリクと仲間たちがつねに偏見と闘っていることもわかる。作者は現実の爪を彼らの若い肌に食い込ませることはしても、魔法をかけてそこから救い出したりはしない。

だからこそ、郊外っ子の作者が最後に差し出す希望は、読む者の心に響く。恵まれているとはいえない環境にあっても、そこに希望がないなんてことはない。二十六歳に希望がないなんてことはない。そう、思わせる強さがある。その強い声が、誰もが知る感情の襞を押し分けて語りかけてくる。

もし、きみがいまつらい情況にあっても、運の悪さを引き当てたみたいな気がしていても、希望を失うな、きみ自身が情熱を傾けることができる何かを見失うな、それはきみの人生にたしかにあるんだと。

作者のマブルーク・ラシュディと私は、三年前にアメリカの大学の作家交流プログラムで知り合った。冗談で人を煙に巻くのが大好きな、まさに『マリク』に出てきてもおかしくないようなキャラの立った人で、後ろから走ってきてショルダーバッグを奪うという「郊外ジョーク」がお得意。腰を傷めるまでは、本人もサッカーが上手かったらしい。北野武と是枝裕和が好きという日本映画通でもある。冗談好きだけれども根はたいへん真面目な人物で、著名な作家となったいまも、生まれ育ったパリ郊外に暮らし、フランス語能力が低いために進学や就職などの将来を閉ざされてしまう子供たちの可能性を開くため、地元で創作ワークショップを開いている。

『郊外少年マリク』(原題〈プチ・マリク〉)初邦訳は、私がアイオワ大学の国際創作プログラムで知り合った海外作家を紹介した、『文學界』二〇一〇年十月号・特集「来るべき世界の作家たち」に掲載された(「五歳」「十一歳」「十三歳」の三篇のみ)。初出の機会をくださった『文學界』編集部の森正明さん、舩山幹雄前編集長にこの場を借りてお礼を申し上げます。雑誌掲載時の評判はたいへん高く、「全訳を読みたい」という声がいくつも寄せられたのに力を得て、版元を探したという経緯がある。こうして完訳版が出版されるのは、感無量の一言に尽きる。

 この笑いとポエジーに満ちた心揺さぶる小説が、多くのみなさんに届きますように。

 

 

 二〇一二年八月三十一日

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