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2015年5月5日火曜日

高校進学と第三外国語

 日本はまだゴールデン・ウィーク真っ盛りですが、こちらフランスは復活祭の休みが明け、娘はとうとう、進学希望票を学校に提出しました。

 進学希望票と言ったのは、フランスには高校入試がなく、近隣の公立校の中から、行きたい学校を選んで志望順に書いた紙を提出すると、教育委員会がコンピューターを使って割り振ってくれてしまうシステムになっているからです。
 しばらく前まではコンピューターではなかったらしいし、各高校の校長に選ぶ権利が、私立校のように、あったようなのですが、今は例外を除いて、考慮すべき点をすべて点数化され、コンピューターが非情に割り振ります。

 娘は、住所で決められている進学校パストゥールに行くか、隣のもう少しレベルの低い学校サン=ジェームズに行くか、迷いましたが、結局、後者を第一志望にしました。
 最近になって、昨年の「全国高校ランキング」が発表されたところ、サン=ジェームズの成績がぐんと上がって、ここまでレベルが低いとどうなのかと考えてしまったような学校ではなく、全国平均より上の、普通の良い学校になっていたことが分かったからです。しかも2011年から毎年、はっきりした上昇曲線を描いているので、校長が変わったのかなにか勢いが感じられ、学校訪問したときの雰囲気を考え合わせても良い風が吹いているように思い、任せてみることにしました。

 人気のある進学校を捨てて、より人気のない学校に特別願いを出す場合は、反対の場合とは違って、なにも理由がなくても通るだろうとは思うのですが、やはり越境願いを出すには理由が要ります。娘はそこで、「第三外国語にイタリア語を勉強したい」というのを理由にしました。

 この「第三外国語」というのはラテン語やギリシャ語と並ぶ選択教科ですが、妙なもので、ほとんど「越境」の口実に使われています。パストゥールには「ロシア語」があるので、近隣の秀才たちは、やりたくなくても「ロシア語をやりたい」と言って入って来ます。なかには本当にロシア語がやりたい子がいるでしょうに、「ロシア語志望者」の中から成績順に希望が通るのは、いかがなものでしょうね。学校側は、「選択授業の第三外国語を履修する生徒は学力に余裕がなければならない」と言って正当化するのですが。

 まあ、うちの娘は実際、イタリア語はやりたいそうです。モード関係に進もうかという気持ちがあるので、だったらイタリア語は使えるからだそうです。でも、もしパストゥールに行くなら「ロシア語やってもいいな」ですから、本当は第三外国語が理由ではありません。どちらかというと、美術の選択授業があるところが魅力なのですが、美術の選択授業はどういうわけか越境願いの理由にならないようなのです。まあ、よく分かりませんが。昨日、ムスメと「志望票」と記入説明書をにらみ尽くして、第一志望を「サン=ジェームズ、イタリア語」第二志望を「サン=ジェームズ、美術」第三志望を「パストゥール」として出しました。第五志望まで書けるけれど、うちはもうこれで大丈夫でしょう。パリなどでは第八志望まで書いて、しかもどこにも入れなかったりするので大変だそうですが。

 でも、フランスで学齢期の子どもを持っているのでなければ、高校選択の話はこれ以上は退屈でしょうから、角度を変えて、「外国語」の話をしましょう。


Fondation Louis Vuitton 本文と関係なし


 高校で第三外国語までやるというのは、大学から第二外国語さえ消えて行っている日本とはずいぶん事情が違うと思います。
 もちろん第三外国語ともなれば、時間数は週に3時間、3年間やってもそれほど高いレベルに達するわけではありません。といっても週に3時間、3年間といえば馬鹿に出来ないとも思います。私たちが大学でやった教養の第二外国語は週2回4コマで2年間でしたから、時間数からしたら、それより多いのではないでしょうか。

 ヨーロッパでは、その言語でできることを基準に細かくレベル分けした「ヨーロッパ言語共通参照枠」なるものが決められていて、語学教育はそれを目安に行われますが、第三外国語の到達目標は、この「参照枠」のA2レベル。
ごく基本的な個人的情報や家族情報、買い物、近所、仕事など、直接的関係がある領域に関する、よく使われる文や表現が理解できる。 簡単で日常的な範囲なら、身近で日常の事柄についての情報交換に応ずることができる。自分の背景や身の回りの状況や、直接的な必要性のある領域の事柄を簡単な言葉で説明できる。」ということだそうです。

 「その言語でできること」を基準にしている「参照枠」は、文法や語法の細かい間違いは意に介しませんから、語学試験である英検や仏検と単純に比較することはできませんが、参考までに日本語のWikipediaが載せている比較表によれば、英検準2級程度。
 第三外国語は、バカロレア(高校卒業=大学入学資格試験)では、口頭試験のみで筆記は要求されません。外国語をしゃべるのが苦手な日本人は「えっ、なんてむずかしそう」と驚くかもしれませんが、長年外国語で暮らし、外国語を教えたこともある私がはっきり申し上げますが、外国語をしゃべるということは、読んだり書いたりするよりずっとずっと容易なことです。しかも多少の間違いがあって良いとなればなおさらです。口頭試験しかしないというのは、つまり、高いレベルを要求していない、ということなのです。

 さて、第三外国語から話を始めてしまいましたが、第三外国語は、高校になって初めて習う外国語で、しかも選択科目、誰もが学ぶわけではないのです。けれどもフランスの子どもたちは、その前に第二外国語が必修です。
 現行のカリキュラムでは、第4学級(中学の3年目、日本の中学2年生にあたる学齢)で第二外国語の習得を始めます。ロシア語とかイタリア語、ポルトガル語、中国語、マイナーなところではアラビア語、日本語など、理論的には可能なものがたくさんあるのですが、実際にはそういう言語は特別にその授業のある中学に行かなければ学べません。スタンダードなのはドイツ語とスペイン語で、この二言語は、たいていどこの学校にもあります。
 第二外国語はバカロレアまでに5年間勉強したということで、到達目標は共通参照枠のB1、「仕事、学校、娯楽で普段出会うような身近な話題について、標準的な話し方であれば 主要点を理解できる。 その言葉が話されている地域を旅行しているときに起こりそうな、たいていの事態に 対処することができる。 身近で個人的にも関心のある話題について、単純な方法で結びつけられた、脈略のあるテクストを作ることができる。経験、出来事、夢、希望、野心を説明し、意見や計 画の理由、説明を短く述べることができる」となります。Wikipediaによれば英検2級にあたります。
 バカロレアの試験は口頭だけでなく筆記が入ります。5年間勉強したといえば、私たちが大学入試時点で英語習得期間が6年でしたから、あまり変わりません。しかも第二外国語です。外国語は先に他の外国語を習得しているほど上達が早くなるので、5年間習得した第二外国語は6年間習得した第一外国語とさほど違わないのではないかと思います。

 そして第一外国語。これは中学の初学年、第6学級(日本の小学校6年生相当学齢)で始め、バカロレアまで7年間学ぶことになります。フランスでは第一外国語は圧倒的に英語ですが、原則としては英語と決まっているわけではありません。ドイツ語やスペイン語やはたまた日本語だって良いのです。ただ、上でも言ったとおり、日本語を第一外国語にできる学校というのはほとんどありません。フランス中で公立ではパリに一校あるだけです。
 親御さんも英語を身につけさせたい人が大多数だし、教員も英語が一番見つかり易い。そういうわけでほとんどの学校では第一外国語は英語ですが、ドイツ語はわりあいに第一外国語にできる学校が多いです。というのは、「バイリンガル学級」という制度があるからです。「バイリンガル」とは紛らわしい名前ですが、俗に言う「二言語ペラペラのバイリンガル」を養成するクラスではありません。単に「第一外国語を二つ勉強できるクラス」というのが「バイリンガル学級」の内容です。英語と並んで、同じ時間数、ドイツ語(ないし他の言語)を勉強できるクラスで、これに入ると第二外国語の導入を待たずに中学入学と同時に英語の他にもう一つ外国語を学ぶことになるわけです。
 うちのムスコも、まだ第5学級ですが、もう1年以上、英語とドイツ語を平行して勉強しています。バイリンガル学級に入るには条件があり、小学校で一定水準の成績を取っていないと許可してもらえません。特別によくできる生徒である必要はないようですけれども、平均以上の子を集めるのでバイリンガル学級は校内では「エリート」クラスになるようです。バカロレアのときは二つのうちの一方を選んで第一外国語を受験します。
 第一外国語の到達目標は、バカロレア時点でB2、「自分の専門分野の技術的な議論も含めて、抽象的かつ具体的な話題の複雑なテクストの主要な内容を理解することができる。 お互いに緊張しないで母語話者とやり取りができるくらい流暢かつ自然である。かなり広汎な範囲の話題について、明確で詳細なテクストを作ることができ、さまざまな選択肢について長所や短所を示しながら自己の視点を説明できる」だそうです。これもWikipediaによれば準1級あたり。

 ざっと説明しましたが、フランス人たちはこれだけ外国語を勉強して高校を卒業するのです。職業高校のカリキュラムにだって、第二外国語はあります。「職業バカロレア」でも外国語は第一も第二も要求されるのです。
 コツコツやっていればできるもので、ムスコのドイツ語もムスメのスペイン語も、まだ初歩ではありますが、確実に身についてきています。英語は言わずもがな。こうしてバカロレアまで続けていれば、高校を卒業して上級学校に進んだときには、語学を勉強するのではなく、外国語を使うことができるようになっているでしょう。(語学は使わないと忘れてしまうので、「なんにも覚えていない〜」と言うフランス人はもちろんたくさんいますが)
 やはり語学は若いうちのほうが簡単に身につくし、語学学校に通わなくても公教育で無料で教えてくれるのですから、私は子どもたちを見ていると羨ましくて仕方がありません。
 自分の中学時代を振り返ってみても、勉強が大変なんてことは全くなかったので、あんなに余裕があったころに選択で第二外国語が勉強できたらどんなによかったかと思います。

 一方、日本では、大学の教養課程からさえ、第二外国語を追放してしまっていると聞き、お節介ながら心配しています。
 ヨーロッパの若者と、あまりに大きな差がついてしまわないでしょうか。

 とくにフランス語をやれとは言わないけれど、日本と関係も深く、習得に時間も比較的かからない韓国語や中国語など、勉強したらよい語学は他にもたくさんあります。第二外国語は、中学・高校で勉強させることを是非、おすすめしたいです。教えられる人もたくさんいると思います。
 そうしないならせめて、教養の外国語を削らないで欲しかったと思います。たった2年やっても身に付かないというのは本当かもしれませんが、だったら4年間必修にするなり、高校で第二外国語を必修にするなり、削るのとは反対の方向に向うべきではないでしょうか。

 日本では、英語さえなかなかできるようにならないのに他の言語まで手がまわらない、と思う人が多いのかもしれませんが、それは違います。言語は複数できるようになると、その能力が他の言語に影響するので、たくさんやったほうが全てできるようになるのです。「バイリンガル学級」の存在理由のひとつに、その方が効率的に外国語が身につく、という説があるとも聞いたような気がします。

 また、英語さえできれば世界と付き合うのに困らないから、他の外国語は必要ないと考える人が多いのかもしれませんが、それも私は異論があります。確かにすべての日本人が第二外国語を学ぶ必要はないと思いますが、ある程度は、後にその外国語に熟達する人が一定程度出るように裾野を広げておく必要があると思います。でも、これは書いていると長くなるし、議論が学校から飛ぶので、またの機会にします。


 とにかく語学に関しては、日本の子どもはヨーロッパの子どもに較べてあまりに恵まれていなくて、かわいそうな気がしていますし、そんなに外国語を勉強しないでいて、日本は国としても大丈夫なんだろうか、と心配になるのです。

2013年1月11日金曜日

翻訳について考えたこと(1)

翻訳の話をしようと思います。

もう二ヶ月近く前のことになってしまいましたが、東京へ帰っていた間に、妹に誘われて「翻訳という怪物」というイベントに行きました。柴田元幸、ジェフリー・アングルス、管啓次郎という、翻訳の第一人者の方々のお話で、東京ではしょっちゅうこういう催しをやっているようですが、私は参加する機会などほとんどないこともあり、たいへん刺激的でした。とりわけ、三人がエミリー・ディキンスンの同じ詩を訳して比較討論したのはこの夜の白眉で、私は手元にコピーを持っているのでご紹介したい気もするのですが、この夜のことは『すばる』2月号に詳しく掲載されているとのことですので、そちらをぜひご覧くださいと言うに留めて、その夜、話を聞きながら私の心に浮かんだことをいくつか、特に自分のために書いておこうと思います。




「翻訳者は透明であるべきだ」という考え方について。柴田先生は、それがいかに難しくても「透明な翻訳は可能だ」と考えて仕事をしていると言い、それに対して管先生は、「翻訳自体が新たな創造である可能性」を対置させていました。

一見、対立するように見えるけれども、それは翻訳の二つの面であり、両立すると私は思いました。

これはもちろん「原文に忠実な翻訳をするか、訳者の恣意的で自由な介入を許すか」というのとは次元の異なる問題です。というか、次元の違う問題として私は受け取りました。

私は翻訳はクラシック音楽の演奏によく似ていると思います。こういう発想は、音楽家からはわりとよく聞きますが、言葉の専門家からはあまり聞くことがないように思います。言葉の専門家は「翻訳」というと「言い換え」「移転」の意味のある英語のtranslationをまず思い浮かべるからかもしれません。一方、音楽の「演奏」を意味するinterpretationという言葉は、同時に「解釈」という意味と「通訳」という意味をも持っているので、演奏家は自然に自分の仕事と「翻訳」に親近性を感じるのではないでしょうか。フランス語のtraductionはinterpretationとは意味は異なりますが、「別の形での現れ」という意味合いを持っています。

クラシックの演奏家は、自分の音楽を作るためにチラッと楽譜を参考にするわけではなくて、楽譜を読み込んで読み込んで、「これが作曲者の頭にあった音楽だ」というものを音にするのだと思います。「素晴らしい演奏でしたね」と言われても、「そこに全部書いてある通りです。私はそれを読んで伝えたに過ぎません」と言うでしょう。曲解しないことはもちろん、何も取り落とさず、余計なものを付け加えず、書かれた曲に肉薄して、それを自分の持てるあらゆる技術を駆使して音にすること。

それでも演奏家は自分の演奏が唯一絶対な演奏ではないことを知っています。あきらかに間違った「解釈」というものもありますが、間違っていない解釈で、異なる演奏があることを認めています。第一、たとえ理解した音楽が同じであったとしても、演奏者の肉体的な条件によっても、音色は変わってくるのではないでしょうか…

翻訳者もまた、原文を原語のなかで読み込み、できる限りその言葉やテクストの意味と効果を理解することから始めます。そして理解したものを、移し変えようとする別の言語のなかでできる限り再現しようとするのです。それが「透明であろうとする」努力だと思います。

もちろん、完璧な翻訳が不可能なことは誰でも知っています。

実際のレベルでは、私など自分を省みて思うのですが、語学力も不足して誤読をしたりもしますし、なかなか原文のすべての語彙の正確な重みを掴みきれていないと思います。表現する方の言語にしてもどうしても翻訳者個人の限界があります。現実にはこのあたりが翻訳の障碍のほとんどだと思いますが、柴田先生クラスになると、そういう障碍は最小限に抑えられる自信があるのではないでしょうか。

けれども、そういう翻訳者個人の限界をたとえ理想的に超えたとしても、今度は移し変えようとする言語自体の限界や不自由さがあって、これはどうにもなりません。それでおそらく柴田先生といえども「詩の翻訳は不可能」とおっしゃるのだろうと思いました。

そこで翻訳を原文に照らして「不完全な再現」と言ってしまえばそれで終わりです。でも、実際に翻訳に携わってみると、その経験から、別のものが立ち上がってくるような瞬間に出会うことがある、「新たな創造の可能性」というのは、おそらくそういうことを言っているのではないかと思いました。それは、本人自体が言葉の集積である翻訳者から、言葉が立ち上がってくる瞬間であり、また、原文の言語とは異質な言語の中に、新たなものが生れてくる瞬間です。実際に翻訳作業に携わっていて、私の場合、自分の書く日本語に、いつもそれを感じられるわけではありませんが、そういうスリリングな感覚というものが、あるということがなんとなく分かるような気がします。

しかしいずれにしても、とてもレベルの高い話で、私などはできる限り、語学の勉強に励むところが現実的な目標です。

他にもいろいろ考えたことがあったのですが、すでに長くなったので今日はこれで終わりにします。

2012年10月4日木曜日

「バイリンガル狂想曲」




今更ですが、2007年にポプラ社のウェブマガジン『ポプラビーチ』に連載したエッセイ、「バイリンガル狂想曲」へのリンクを貼りました。

興味を持つ読者が限られるという理由で本にはならなかったものですが、限られた読者には面白いのではないかと思うので、よかったら覘いてみてください。


第一回 余はいかにして超教育ママとなりしか
第二回 パパはポリグロット
第三回 日本語補習校顛末記
第四回 ネイティブにフランス語を教える
第五回 バイリンガルの進学先事情
第六回 みつの日本の小学校体験
第七回 歴史・地理と社会科
第八回 語学後進国フランス
第九回 4人に1人がバイリンガル
第十回 2008年正月

このブログのページ左のリンクからも行かれます。リンクページは第三回ですが、ページ下方のBacknumberから、お好きなページに飛べます。

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5年も経った今となると、子どもたちはここに書いた日本語補習校からは別の学校に移り、娘は日本語を正課でやるラ・フォンテーヌという学校には進まず、超教育ママはいろんなところで躓いていますが、この続きを書きたいといつも思っています。