2018年12月19日水曜日

Gilets Jaunes と直接民主主義

 Gilets Jaunes (黄色いベスト)の運動は、新しい局面に入っています。先週土曜日(1215日)の5回目のデモは参加者人数が半減したので、マクロン大統領が打ち出した購買力上昇のための緊急対策に満足して運動は終息したと、もし日本の人たちが考えているとしたら、それは間違いだと思います。Gilets Jaunesが投げかけた波紋はもっとずっと大きいのです。
 5回目のデモの要求は、RIC (référendum d’initiative citoyenne 市民のイニシアチブによる国民投票)に焦点が絞られて来ました。これは、市民に、自分たちが選んだ法律を起草したり廃止したりする権利を与えよというもので、例えば議員や大統領の罷免などを可能にするそうです。また、国民生活や国の方針に関わる重要法案を、そうしたいと思えば国民が起草して、投票にかけて是非を問うことができるようになります。まずそういうシステムを憲法に書き込むべく憲法改正をせよというのです。具体的には、「独立した機関のコントロールの下で70万筆の署名を得た法案は国民投票にかけられる」とすると言っています。(辺野古の土砂投入を、沖縄の県民投票まで中断して待つよう日本政府に呼びかけて欲しいというトランプ米大統領への請願署名をちょっと思い出しますね)

 この前のブログにも少しだけ書いたけれど、Gilets Jaunes の運動は従来のデモとは異質なものでした(このことを、「黄色いベスト」のデモについて紹介した記事の中でも触れていないものが割と目についたので一言、注意を引いておきたいと思います)。その理由は、ひとつは担い手が政治色のない、地方の低所得の人たちだということです。また呼びかけがFacebookを使って自然発生的に行われていて、運動のリーダーがいない(運動の中でだんだん生まれてきたけれど)、デモの許可を取っていないことも付け加えておきます。けれども、一番大きな点は何と言っても、議会による代表制民主主義に代わる、直接民主主義を志向して、それを要求に掲げたことだと思います。
 デモというのはもともと市民が直接声を上げるという点で、直接民主主義につながる要素があります。けれど、デモで何かが決まるわけではないので直接民主主義そのものではありません。デモの要求を考慮しながら政権や議会が動くということで、民意が反映されにくい代表制民主主義の欠陥を補う手段と考えられます。署名運動やデモなどによって代表制民主主義の欠陥を補った形の民主主義は「参加民主主義」と呼ばれます。
 そこまでは従来のデモの範囲だと思うのですが、Gilets Jaunes は、現在の議会制民主主義では自分たちの意見は全く代表されていない、自分たちの政治に参加する権利(主権)は簒奪されてしまっていると感じて、「選挙を通して代表を選ぶ」以外の方法を提案しました。私は、暴動が激しかったという以上に、このことが革命的だと思いました。
 フランスは長い間、保守系の党と左翼系の党の政権交代でやって来ていたのですが、近年、既成政党はすっかり人々の支持を失なってしましました。それがはっきりと見えたのが前回の大統領選で、シラクやサルコジを出した保守系政党もミッテランやオランドを出した社会党も第一回投票で姿を消してしまい、決選投票は極右のルペンと俄か新党で議員の経験すらないマクロンの一騎打ちという異変が起こりました。
 既成政党への失望と極右政党への嫌悪と新し物好きの期待を一身に集めてマクロン大統領が誕生したのでしたが、既成政党の没落を背景にマクロンの政党が議会の多数も握りマクロンの親政のようになりました。だから、現行の政治に対するGilets Jaunesの不満は直接マクロンに向かいましたし、フランス国民は議会に何も期待を抱けなくなっているのです。

 Gilets Jaunes運動への対応として、マクロン大統領と政府は今後、Grand débat national (国民的大議論)を行うと宣言しました。まだ内容ははっきりしていませんが、「エコロジー移行」「税制」「国家組織」「民主主義と市民権」の4つのテーマについて広く意見聴取を行うとのことで、この中で、RICも対象になるでしょう。すでにテレビの討論番組などでは、スイスの直接民主制について専門家が話すなど、RICの可能性について話題になっています。

 あくまで代表制民主主義にこだわる意見から、RICの原則は認めても具体的にどう可能なのかを考える意見、近年の国民投票の性質、行うにあたっての危険性なども含め、とても興味深いです。

2018年12月11日火曜日

12月9日のパリの光景

 Gilets Jaunes (黄色いベスト)の4回目の大行動のあった128日の翌日、パリを見に行きました。

Champs-ÉlyséesのHSBC銀行


Champs-ÉlyséesのORANGE
  

Champs-Élyséesのドラッグストア




Bd. Haussemannの落書き


「終わりは近いぞマクロン」

「お前が道を渡るのを手伝ってやるよ」
マクロンが失業者に「道を渡ってカフェやレストランで聞けば必ず職が見つかる」と言って、
人々の顰蹙を買った事件に引っ掛けた当てこすり

 落書きのほとんどはマクロンの悪口で、嫌われているなあと実感しました。デモのスローガンも「マクロン辞めろ」が主でしたしね。

 昨日の月曜日、ずっと姿を現さなかったマクロンが事態を収拾するため、緊急対策を発表しました。最低賃金を2019年1月から100€アップ、年末の特別手当、残業代免税、年金が月2000€以下の者はCSG(社会保障関連税)値上げ据え置きなど、購買力アップのための政策を約束。

 デモの要求が通ることなどない日本を故国に持つ私などトロいので、これに先週決めた燃料税値上げ取りやめも含め、Gilets Jaunesは随分成果を上げたのでは、などと思うのですが、そんな風に思うのは、フランス人であればマクロンの取り巻きと中道と保守の一部くらいのようです。

 失業者には何の対策もない、最低賃金より少し上の給与所得者だって生活は苦しいのに対策がない、財源が税金だが、富裕層優遇のためになくした富裕税の復活については考えてない、などなど、全く不十分と言う声が大きい。そう言われればそれはそうだ。

 そんなわけでFacebookではまた土曜日のACT5が、すでに呼びかけられている。

 ひとつ私が思うのは、今回のGilets Jaunesの運動は、労組などが主導する、いつものデモと違って、ひょっとすると政府からいくつかの譲歩を勝ちとってよしと終わりにならない可能性がある性質のものかもしれないということ。

 生活苦と怒りに任せて、自然発生的に起こったこの運動には指導者がいない、要求も様々。ただ彼らが一致できるのは、反マクロン。

 また、マクロン自身が議会多数派であることを良いことに、議会を尊重しない独裁ぶりを発揮していたわけですが、そこに歯止めをかけるのはやはり議会でなく直接、民衆であったということも新しい。

 極右政党のルペンも極左政党のメランションも解散総選挙を訴えるのですが、何となくトンチンカンな感じがしないでもありません。

 ここからマクロンに対峙するために何が起こるのか。議会に力を取り戻させるという選択もありますが、既成政党が軒並み支持を失ってしまっている現在、どうなのでしょう。ひょっとすると直接民主制に近いものが生まれようとしているのでは、と思ってみたりもするのです。

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追記 これを書いた日、ストラスブールでまたテロが起こりました。テロに狙われるようではデモなどしている場合でない、危険だということで、政府はデモの中止を呼びかけています。Gilets Jaunesはこれを拒絶したということですが。

また、マクロンの緊急対策発表の後、Gilets Jaunesの5回目の行動を支持する声は、これまでの70%から50%くらいにまで減りました(調査によって46%から54%)。
 



 

2018年12月1日土曜日

パリ燃ゆ

12月1日、パリは大変なことになりました。シャンゼリゼ大通り、オスマン通り(昨日は行っていたサル・プレイエルもすぐ近所)、オペラ通り、リヴォリ通りなど、馴染みのある通りで店が壊され、火災が起こり、催涙弾が投げられ、バリケードが築かれ… 燃料費高騰への抗議を発端に、様々な社会政策およびマクロンの辞職を要求するGilets Jaunes (黄色いベスト)運動の3回目のデモ。すでに先週も見受けられたデモ参加者の暴徒化がさらに広がり、午後9時時点で「怪我人が110人、火災が180数件、280人くらいが職務質問を受けた」だったか(確かでない)。「黄色いベスト」運動は地方でも行われていて、同じように暴動も広がっています。30年近く前にフランスに来た私も初めて見る光景です。





プレイエルのマリア・カラス

昨晩、サル・プレイエルでマリア・カラスを聴きました。ホログラムで蘇生された歌姫は、ものすごくリアルであると同時にどことなくこの世のものでない空気を漂わせ、指揮者から花を受け取ったかと思うと、照明が暗くなると同時に消滅したりして、本当に美しかった。コンサート・ホールで聴くカラスの声は、CDで聴くよりも豊かに私には聴こえました。周りの人たちは「一回見るぶんには面白いけど、気持ち悪いね」と言って、拍手をしない人もかなりいたようですが、私は墓の彼方のディーヴァに惜しみない拍手を送りました。マイケル・ジャクソンもすでにホログラムになっているそうだし、こういうテクノロジーが生まれたことは色々なことを考えさせますが、私たちが映画とともに生きてきたように、これからの人たちがホログラムとともに生きても不思議はないかなと思います。(ただ、こんなに電力エネルギーを使いすぎる生活を続けていると地球が滅びてしまうかもしれないからどこまで可能かという別の問題はあるけど。)