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2012年10月16日火曜日

『ナタリー』はこんな小説です


表題、「ナタリー」は女主人公の名前だが、もしかしたら真にふさわしいタイトルは、「フランソワ、シャルル、そしてマルキュス」かもしれない。というのも、この小説に描かれているのは、ナタリーをめぐる男たちの実に繊細な胸のうちだからである。

これは、「南日本新聞」に載った、『ナタリー』の書評からの抜粋です。「不器用な男たちの心模様」という切り口で書かれた、なかなか的を射た、オリジナルな批評で面白いです。

ちょっと活字が小さいですが、ここにアップしたので、『ナタリー』をもう読んだ方も、まだ読んでない方も、時間があったら読んで行ってください。「南日本新聞」は、鹿児島県の新聞。評者は鹿児島純心女子中高の廣尾理世子さんです。

同じページの下にアップした、カラーの書評は「ウィンク広島」、評者はライターで翻訳家の小尾慶一さん。こちらも、とてもよく読んでくださった、素敵にまとまった批評記事です。目を通していただければうれしいです。

描かれるのは、夫を事故で亡くした女性が、傷みを乗り越えて、新たな愛を見出していく姿。有能で聡明な女性と、さえない同僚の男性という、いっけん不釣合いなふたりの恋の始まりやその中で生じる混乱を、ユーモアたっぷりに物語る。特にみごとなのが男性の心理描写。妻がいることを忘れて女性に迫ったり、偶然を装って会うために汗だくになるまで会社を歩き回ったり、そのダメっぷりにクスクス笑ってしまうはずだ。

 
白水社の語学雑誌「ふらんす」9月号には、文芸・音楽評論家の小沼純一さんが書評を寄せてくださいました。小沼氏独特の語りで、『ナタリー』の魅力を伝えてくれます。

そう、たしかに要約するのは簡単だ。ナタリーがどうなるのかは一言ですむ。それでいて、ついつい、読んでしまう、読むのをやめられない、ちょっと読んで放り出してもまた手にとって読み始めてしまうのは、なぜなのだろう。そして、ドラマティックでも何でもないのに、終わりに届けられる静かなひびきは。


同じページに、ジュンク堂が出している書評誌「書標」の8月号から、コピーしました。残念ながら無署名ですが、この一節には胸を打たれました。

デリケートな恋物語が書店の棚から姿を消し(あるいは無視され)、率直な感情につい
ては誰も語らなくなってしまった昨今、この小説の刊行はある種の読者の乾きを充分に癒
し、細やかな感情を掬い取る見事な筆致によって、閉じかけていた扉をもう一度開いて
くれるはずです。

他にも小さい紹介記事が、「ヴォーグ」「fRau」「フィガロ・ジャポン」などに出ました。小さいので写真を載せても読めないのでアップしませんでしたが、書いてくださったみなさんに感謝。

2012年9月29日土曜日

ダヴィド・フェンキノスの小説『ナタリー』に引用されたアラン・スーションの歌『逃げ去る愛』



私が翻訳したダヴィド・フェンキノスの小説『ナタリー』(早川書房)を読んでくれた大学の同級生たちがこの夏、「読書会をしよう」と集まってくれて、その席で「ナタリーが好きだという、アラン・スーションの歌『逃げ去る愛』歌が聴いてみたいけど見つからない」と言われました。オリジナルタイトルはL’Amour en fuite で、こんな歌です。タイトルをクリックすると聴けるはず。

L'Amour en fuite

L'amour En Fuite :
Caresses photographiées sur ma peau sensible.
On peut tout jeter les instants, les photos, c'est libre.
Y a toujours le papier collant transparent
Pour remettre au carré tous ces tourments.
On était belle image, les amoureux fortiches.
On a monté le ménage, le bonheur à deux je t'en fiche.
Vite fait les morceaux de verre qui coupent et ça saigne.
La v'là sur le carrelage, la porcelaine.
{Refrain:}
Nous, nous, on a pas tenu le coup.
Bou, bou, ça coule sur ta joue.
On se quitte et y a rien qu'on explique refrain
C'est l'amour en fuite,
L'amour en fuite.
J'ai dormi, un enfant est venu dans la dentelle.
Partir, revenir, bouger, c'est le jeu des hirondelles.
A peine installé, je quitte le deux-pièces cuisine.
On peut s'appeler Colette, Antoine ou Sabine.
Toute ma vie, c'est courir après des choses qui se sauvent :
Des jeunes filles parfumées, des bouquets de pleurs, des roses.
Ma mère aussi mettait derrière son oreille
Une goutte de quelque chose qui sentait pareil.
{Refrain}

僕の感じやすい肌に焼き付けられた愛撫
そんな瞬間も写真も、みんな捨てられる、それは自由
いつだって透明な接着テープがつらいことを四角い枠に収める
僕らは絵に描いたような、見栄えのいい恋人同士
所帯道具をそろえて、カップル生活の幸せ、とんでもない
すぐにガラスが割れて、かけらが傷をつけ、血が流れる
ほら、タイルの床には 割れた焼き物が
僕らは続かなかった
ポロポロ、頬を伝う涙
僕らは分かれる 理由なんてない
逃げていったのは愛
逃げていったのは愛
僕は眠り、レースにくるまれて子どもがやって来た
出かける、戻ってくる、立ち去る、ツバメのように
落ち着いたかと思うと、僕は2DKを出て行く
僕らの名前はコレット、アントワーヌ、サビーヌ
僕の一生は 逃げていくものを追いかけること
いい香りのする女の子たち 涙の束 バラの花束
僕の母親も耳のうしろに
一滴つけていた そんな香りの何かを

**********

これは、フランソワ・トリュフォーの同名の映画(邦題は『逃げ去る恋』)の主題歌。映画は、『大人は判ってくれない』のアントワーヌ少年のその後で五部作の完結編になる作品。フェンキノスが自分の小説をこんな雰囲気にしたかったのだろうな、と思わせる作品でもあります。

さて、往年の文学青年、青女の読書会は、「女に対するアプローチにはシャルルの方法かマルキュスの方法のいずれかしかない」とか、「女に振られるときには、微塵の希望も抱かないまで叩きのめされるほうが希望を残されるより好ましいか」とか、実人生にひきつけた感想が続けば、「ロケーションや小道具の商品名で人物のキャラクターを作る書き方を最近の小説はよくするけれども、この小説には描写がほとんどなく、心理分析だけで人物造形している」と教授がインテリ気なアプローチで議論の知的水準を高め、はたまた「スウェーデン人というのは暗いんでしょうか。実は親友がスウェーデン人の夫と離婚したいと言い出しているんですが、スウェーデン人の特徴というのがぴったり重なるんです」と国際人生相談ありで、面白かったです。

スーションの歌を聴いた人からは、吉田拓郎っぽいとか、70年代後半の雰囲気とかの感想が。さて、みなさんはいかがですか?