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2015年2月18日水曜日

MEIWAKUとMANKO/世界の起源の鏡

 カナル・プリュスのユーモア・ニュース番組le Petit Journal213日版で、日本のニュースが話題になっていた、と娘がYouTubeで見せてくれた。

 キーワードはMEIWAKU MANKO 

 まずMEIWAKUは、「イスラム国」人質事件で斬首された後藤健二さんの母親が、「ご迷惑をおかけしました」と、政府と世間に謝罪したことを取り上げ、「息子を殺された上になぜ謝らなければならないのか?」というフランス人の素朴な疑問を提示していた。

 子どもだった40年前、小学校の教室で「他人に迷惑をかけないようにしよう」という学級目標で育てられた私には、馴染みがないわけではない言葉だけれど、「MEIWAKU」という社会的圧力は、一歩日本を出れば、どこでも通用するわけではないローカルな概念だということは、知っておいても良いと思うのでここでご紹介しておく。

 もうひとつの MANKOは、いわずとしれた、ろくでなし子さんのマンコ・アート。ろくでなし子さんが、女性器をかたどった作品を理由に起訴された事件は、アートとセックスをこよなく愛するフランス人心に訴えたらしく、昨年から、いち早く報道されていたが、「日本はポルノの溢れている国なのに、なんでこんなものが犯罪になるのか?」というのが、すべての(と言ってよいと思う)フランス人の疑問である。ルポルタージュの中で作品が紹介されたり、警察が問題視して作品をみんな持って行ったと説明されたりすると、そのたびに視聴者参加の会場からは笑いが漏れた。

 ちなみにうちの娘は、「このアーチストの作品は変だけど、かわいいのもあるし、ちょっと面白くもある。日本では子どものポルノみたいなものまであるのに、そっちは良くてこれが悪いというのは全然分からない」とのことでした。

 さて、そんなわけでマンコ・アートのことを思い出したので、この事件に触発されて、昨年、真面目に書いたのだけどボツになってしまった文章を下にコピーしておく。直接には、デボラ・ド・ロベルティというアーチストの『起源の鏡』という作品について書いたもの。

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「世界の起源の鏡」

 アーチストのろくでなし子が起訴されたというニュースは、フランスを代表する新聞『ル・モンド』でいち早く報道された。

 「日本では、ワギナ・アートは通用しない」と始まるこの記事は、淡々と事実関係を報告する中に、「ポルノは溢れているのに、生殖器を見せることは禁じられている国」という記述が外国人記者の疑問を覗かせており、最後は「女性器がわいせつと見られるのは、あまりにも隠されているからであって、実際はただ女性の体の一部であるに過ぎない。男性器の表象はポップ・カルチャーの一部となっている」という、ろくでなし子の主張の引用で結んでいる。

 さて、女性器のエキジビションという点で私は、5月末にパリのオルセー美術館で起こった、女性アーチストによるパフォーマンスを思い出した。

 写実派の画家、ギュスターヴ・クールベの『世界の起源』という作品は、ベッドの上で開脚した女性の下半身がクローズアップで描かれた衝撃的な作品だが、キリスト昇天祭の5月29日、上は金パールのカットソーをまとい、下半身は裸になった、デボラ・ド・ロベルティ(ルクセンブルグ出身、 30歳)は、絵の前に座り両脚を開き、さらに女性器を開いて見せたのである。シューベルトの「アヴェ・マリア」をバックに、「私は起源である。私はすべての女性である。おまえは私を見ていない・・・」というナレーションを流しながら。

 さて、何が起こったと思いますか?

 観客からは喝采も起こった。けれども、彼女の開いた脚の前に立ち、他の観客から見えないように努めた婦人もあり、反応はさまざまだったという。しばらくすると警備員が、観客を部屋から出るように指示し、アーチストは警察の車に連行された。警備員は「子どもの目に暴力的だったと思わないか?」と尋ねたが、アーチストは否定した。起訴されたという話は聞かない。

 デボラ・ド・ロベルティが後に語ったところによると、自分はこの行為によって、クールベによって描かれなかった女性器の中の穴を示した。穴はすなわち目でもある。自分はこうして女性器を見る観客たちを見返す眼となった、つまり女性器に注がれる眼差しを見返す女性の眼の存在を表したのだと言っている。

 金の額縁に擬した金のスパンコールの上衣をまとって、絵の中の女性と同じように開脚し、しかし絵にはない性器の内部を示しながら、女の視線となって女性器を見る者たちを映し出すことが目的だったのだと。

 彼女はこのパフォーマンスを「起源の鏡」と名付けている。

 女性器のエキジビションというだけでマンコ・アートから連想した「起源の鏡」だけれど、この鏡を通して見ると、ろくでなし子の作品に対する日本の権力の目も、女性の視点から見返されて来るような気がする。
 この国で、権力が女性器に注ぐ視線を、私たち女は、女性器を持つ者の側から見返さなければならないのではないか。

 そのことを、アーチストたちは私たちに捨て身で教えてくれようとしているような気がする。

2015年2月13日金曜日

「イスラム教徒フランス市民」背景補足説明

 前回のブログに、マブルーク・ラシュディの投稿の翻訳をポストしましたが、フランスの事情を知らないと理解しにくいという感想が寄せられたので、少し、基礎的な情報をコメントに返信の形で補足しました。せっかく書いたので、こちらにコピーして、ご参考にしていただければと思います。
 フランスは憲法第一条に「フランスは、不可分の、非宗教的な、民主的かつ社会的な共和国である。フランスは出身、人種、または宗教による差別なしに、すべての市民の法の下の平等を保障する。フランスはすべての信条を尊重する」と謳っていることを知っていると理解の助けになるかもしれません。
 非宗教性(ライシテ)は、上に挙げた第五共和国憲法第一条に明記されているフランス共和国の原則。かつてカトリック教会の権力と世俗の権力が争って、共和国が勝ち取った政教分離原則です。宗教は個人の心の中では何を信じようと自由だが、公共の空間に持ち込んではいけないというもの。ただ、近年は、移民の実践するイスラム教に対して、「ライシテの原則に従い、学校や公共の職場で宗教実践をするな」という風に使われることが多いです。
 文中、「死刑復活」というのは、テロに便乗して、フランスでは廃止になっている極刑を復活させようと、FN(国民戦線)のマリーヌ・ル・ペン党首が発言したことを指しています。
 『シャルリー・エブド』が『ハラ・キリ』の「灰の上に生まれた」というのは、要するに『ハラ・キリ』が発禁になったとたん、同じ人たちが『シャルリー・エブド』という別の新聞を作ったことを指しています。発禁になった理由がド・ゴール将軍の死を揶揄った一面のせいで、そのちょっと前にダンスホールの火災で146人の死者が出たことと重ねて笑ったのです。
 「イスラム教徒の声をひとつにして語れ」というのは、「フランスのムスリムはテロを弾劾する」とか「イスラム教はテロとは無関係だ」というようなディスクールをフランスのメディアが欲しがることを指しています。それに対して、ラシュディは、「フランスのムスリムは多様であり、声はひとつにまとまらない」ということと、「なぜ僕はムスリムとして語らなければならないのか?」と問いかけています。フランスは国民を「出身、人種、宗教によって差別されない市民」と規定しており、人間が市民としてではなく、民族的宗教的ルーツによって自己を定義するコミュノタリズム(閉鎖的共同体主義)を排しているにもかかわらず、イスラム教徒というグループとして語れという矛盾をラシュディは指摘しているわけです。。
「共和国の行進」というのは、1月11日に行われたテロ犠牲者に捧げられた大デモのことです。「共和国の」という形容詞は、「保守も左翼も大同団結して」という内容で用いられます。が、人種差別的極右は排除します。たとえば2002年の大統領選挙で保守のシラクと極右、国民戦線の ル・ペンが決選投票になったとき、第一回投票で落とされた社会党など左翼はシラクに投票を呼びかけました。こういうのを「共和国戦線」と言います。

2015年2月7日土曜日

マブルーク・ラシュディの投稿「イスラム教徒フランス市民: 逆説的な要請」全訳

『郊外少年マリク』の著者、アルジェリア系フランス人作家のマブルーク・ラシュディが1月のパリでのテロとそれに続くフランス社会のなかでの自分のスタンスを語った一文、FBに発表されたものを、本人の許可を得て翻訳しました。ご一読ください。

イスラム教徒フランス市民: 逆説的な要請
今からちょうど一ヶ月前、シャルリー・エブド、ポルト・ド・ヴァンセンヌのユダヤ食品店、モンルージュと続いたテロは、人々の心を揺さぶり、犠牲者への共感のうねりを生んだ。僕もそれを共有し、何度か行われたパリのレピュブリック広場への集会に足を運んだ。僕はそこに、フランス人として行ったのでもイスラム教徒として行ったのでもない。国籍からも出自からも宗教からも離れた普遍的な価値を大切にする人間として行った。口に出すのも憚られるあれらの行為に、衝撃を受け、動転し、愕然としたのは、僕の本質そのものであり僕が人間に属しているからだった。
僕は集会に行ったが、シャルリーではなかった。このフレーズは、掲げるには個人的な思惑や政治的な利害からくる意味があり過ぎる。このフレーズのもとには敵対する者たちが集まって来て、自分に都合の良い意味を盛る。それは必ずしもいつも同じではなく、ときとして互いに真っ向から反対の意味だったりする。極端なところでは、死刑復活論者が臆面もなく、「シャルリー」の名のもとにシャルリーの考えとは正反対のことを言わせようとしていた。「わたしはシャルリー」は中味が空っぽの広告コピーになってしまい、あんまり空っぽなために、わずかに残った知的所有権さえ、血に飢えた者が、なんの疾しさもなく、奪い取ろうとするのだ。
僕はシャルリーではなかった。なぜなら、僕はあまりにも本当のシャルリーを、シャルリー・エブドを知っているので、シャルリーのアイデンティティが、自分自身や他人を嘲弄せずに、全員一致のスローガンに溶け込むとは思えないのだ。思い出そう、シャルリー・エブドは、ド・ゴール将軍の死を146人の犠牲者を出したダンスホールの火事に絡めて揶揄った一面で発禁になった『ハラキリ』の灰の上に生まれた。146人の死をブラック・ユーモアにしたのだよ!
僕はシャルリーではなかった。なぜなら僕は、ユダヤ人であるために殺されたフィリップ、ヨアン、ヨアヴ、フランソワ=ミシェルであり、僕はまた警官であったために殺されたアーメドとクラリサであり、僕はまた、たまたまそこを通りかかったために殺されたミシェルでもあったから。死者たちは名前も殺人者も異なる。決して、僕の目には、名前のない殺人者によって殺された漠然とした「シャルリー」ではない。
僕はシャルリーではなかった。なぜなら、僕にはシャルリーを批判する権利が、あったしそして今もあるから。少しずつ、世間には新種の冒涜罪が流通し始めている。シャルリー・エブドに対する冒涜の罪だ。この新宗教には神はないが殉教者はいて、彼らを非難することは許されず、預言者となった彼らの肖像は同情と称賛をもってしか描かれてはならないらしい。16歳の少年が、コーランを持ったイスラム教徒が銃弾を避けることができずにいる、かつてシャルリー・エブドが一面にした漫画をパロディにして、その新聞を手にしたシャルリー・エブドの漫画家が銃弾に晒されている絵を描き、「ひどいもんだ。鉄砲玉が止まらない」というコメントをシャルリー・エブド側に向けたことが、テロリズムを擁護したといって訴追されるのであれば、なにか神聖な性格があるのかと考えなければならないだろう。元のシャルリー・エブドの漫画の方は、そして僕もこの視点に異論はないのだが、表現の自由だと言われているのだから。
僕はイスラム教徒として集会に行ったのではないのに、たびたび非常に熱心に、イスラム教徒として発言するように求められた。逆説的な要請がぶつかり合う。ライシテ(非宗教性)の熱烈な擁護者にフランス人であれと促されながら、僕の宗教 − 本当のものだか想像のものだか、彼らによれば、名前が僕の信仰の土台らしい — が引き合いに出されるのだ。頭の変なやつがフランスあるいは世界の果てで殺したり、誘拐したり、大量虐殺したりするという迷惑なことをやってくれるたびに。ふたつのアイデンティティの間に衝突はないということ、それらは他のすべてのアイデンティティ、作家であるとか、郊外育ちであるとか、チュニジア料理の愛好家であるとか、他にまた何があるだろう、たとえばカーリングのファンだとかいうこととともに、互いに豊かにし合うものだと分かってもらうのは難しい。
 この逆説的な要請が現れるのは、イスラム教徒のフランス人に、声をひとつにまとめて発言するよう勧める声をあちこちで耳にするときだ。けれども、ひとつのまとまった声で発言できるフランス人のグループなんてあるのだろうか?
共和国の行進のように人を束ねる集まりですら、「フランスの第一党」(訳註 2014年5月の欧州議会選挙でフランスの首位得票を得たことを受けて、国民戦線自身が自画自賛して言ったもの)である国民戦線が、パリで予定された行事に参加しないように呼びかけた。フランス人たちがみんなでできないことを、イスラム教徒のフランス人が実現できなければならないのだろうか? そして社会のあらゆる問題に関してにこれを求められるとしたら、(なぜならこの要請あるいは願いは今日にかぎったことではないから)国民の一部がその宗教あるいはコミュニティの所属に応じてしてしか発言しないということは、心配なことではないか? 意見の多様性、それは表現の自由そのものであり、民主主義であり、それこそが共和国だ。イスラム教徒のフランス人も(すべてのフランス人と同様に)複数の声で発言し続けることをこそ望むべきなのだ。
この逆説的な要請は「not in my name」のようなキャンペーンを通じて現実化する。殺人はクアシ兄弟やブレイビクのようなやつがやっているのであって、僕の名のもとに行われているわけではないということがまるで明白ではないかのようだ。僕がクアシ兄弟を支持しないのは、哲学者エマニュエル・レヴィナスがいみじくも書いているように、すべての人間が人類全体に対して持つ集団的な責任の名においてである。だから僕はブレイビクもまったく同じように支持しないのに、おかしなことに、ひとは僕には、クアシ兄弟やその他、イスラムについての狂った思想の名のもとに犯される殺人についてしか意見を求めないのだ。
この逆説的な要請は、フランス人としての僕にも問いかける。共和国大統領のフランソワ・オランドが、サウジ・アラビアの亡きアブダラ国王の思い出に表敬したのは、僕の名においてではない。アブダラ国王は「イスラム過激派」の信奉者だ。オランドはフランスにおいては告発しているそれに、外国においては順応するらしい。
「イスラム穏健派」なるもの(この表現自体が、「イスラム」という言葉自体には「穏健」が含まれないことを前提としている)の片棒を担いで、しこたま払ってもらえる講演で弁舌をふるったり、大金持ちの独裁者たちの石油まみれの手に自らの手を差し伸べたりする連中は、われわれが擁護する価値を混同させる。普遍主義なのかご都合主義なのか? 人権なのか多国籍企業の権利なのか? 価値なのか利益なのか?
この逆説的な要請が頂点に達するのは、世界の兵器生産者と輸出者のリストを見てみるときだ。それは国連の安全保障常任理事を務める五カ国なのだ。我々は犯罪者に武器を与えて、その犯罪者と闘う警察だ(地上では戦争を通じて、また思想上では、穏やかなサロンで)ディーラー国家の共犯のもとに。フランスがその兵器の40%を、平和と人権の尊重においては評判の悪い中東に輸出しているのは、僕の名においてではない。フランスの兵器商人の最大の利益とひきかえに、平和を再建しに行くフランスの兵士たちの体の周りに熱い薬莢が散らばるのを目にする。良きイスラム教徒とは、支払うイスラム教徒なのか?
この逆説的な要請は、メディアで騒々しく発言する。そこではもう建設的な対話よりも論戦を繰り広げながらブーンとパチッとか雑音を立てることしか問題でない。衝突を好むテレビは、敵対する者たちを、しかも和解不可能に敵対する者たちを相対させて、すべてがコンパクトにまとめられ、ばらばらにして散らすことができるフレーズを引き出そうとする。ツイッターの140文字、ヴァインの6秒。マイクロプラットフォームが生み出す思想はマイクロ(極小)だが論争はマクシ(極大)だ。こうした公開討論というスペクタクルの参加者は誰もが共犯者で、相手を説得することなどもう求めず、自分の周りに支持者を固め、自分自身の聴衆を膨れ上がらせ、そうして自分の「個人的なブランディング」を固めることを目指している。誰もが、24時間テレビの情報を奪い合いながら、自分自身の責任は棚上げして、他人の責任を追求する。

僕はパリのレピュビュリック広場の集会に行った。僕は、フランス人としてでもなくイスラム教徒としてでもなくそこにいたが、フランス人として行くことも、イスラム教徒として行くことも出来ただろう。なぜなら、そうすることは、神に狂った連中によって正道を外された普遍的価値を、大切に思う気持ちと矛盾しないから。そしてまた、正道を外させたのは、ある程度まで、根源的な原則を利益と国境が求めるままにブレさせる、我々フランスの民主主義者自身でもある。僕がそこにいたのはまた、シャルリーとしてではなかったが、僕はシャルリーが発言する権利を持つために、どんなことでもするだろう。

2015年2月3日火曜日

IS人質事件で政府の責任を問う

後藤健二さんの死に深く心を痛めています。
特別な情報を持っているわけでもない私ですが、このことを書いておかないと、他のことが書けない気がするので、今日だけはこのことを書いておきます。

私はこの事件で、政府の対応を糾弾したいと思います。

「全力で対応した」と言っていますが、身代金を払うことは一度も考えたことがなく、ISILとはまったく直接交渉をしていなかったという政府に怒りを覚えます。
それはつまり、人質が殺されるのを待っていたということではありませんか。

後藤さんはジャーナリストです。危険な地域に入るのも仕事の一部です。私たちの目となるジャーナリストの自由は保障されなければなりません。「自己責任」と言う人たちは、間違っています。

湯川さんと後藤さんが人質になっていることを知りながら、安倍首相が、中東歴訪の際に、2億ドルの人道援助を「ISILと闘う目的」と名指しで不必要に強調したこと、イスラエルとの接近を見せつけたことも、慎重な行動ではありませんでした。人質の命を危険に晒した責任を問われてしかるべきだと思います。

残された家族の方々の悲しみはいかばかりかと思います。
「そっとしておいて欲しい」ということの、別の言い方でしかないのかもとは思うのですが、「日本政府に感謝」という一言を遺族の方から聞くたびに、私は変な感じがして、自分だったら言えないと思います。「ISILにパイプがあるから交渉させてくれ」と申し出た人もいたのに、無視した政府です。なんにもしないで人質を見殺しにした政府に、私は怒りしか覚えません。


私は、人質を救えなかった責任をとって、首相は辞任するべきだと思います。

2015年1月18日日曜日

シャルリー・エブドのマホメットのカリカチュアをめぐって

先週の水曜日、襲撃されたCharlie Hebdoがテロに屈せず最新号を発行した。発行部数は、700万部(増刷含む)に上るという。マホメット(日本では最近、ムハンマドと言うらしい)がJe suis Charlieの札を持って泣いている姿にTout est pardonéeとキャプションがついた表紙は、発売になる前から話題になり、賛否両論が沸き起こった。

ところで、このキャプションの訳は「すべては赦された」が正しく、日本の報道で目にする「すべては許される」は間違いだ。「マホメットのカリカチュアを描くことは許可されている」という意味ではないので、念のため(これについては1月13日付のブログに書きました)。

私自身は、この表紙には、シャルリー・エブド側からの赦し(「イスラム教が悪いんじゃない。マホメットは泣いている。仲間を殺されたけど、われわれは血の報復は望まない」というメッセージ)を読み、感動的だと思った。泣いているマホメットもキュートで、優しい笑いを誘った。

けれど、イスラム教の人に同じように伝わるかは心配なところがあると思った。イスラム教では予言者の姿を描いてはいけないことになっているということだから、マホメットを登場させたというだけで冒涜にあたるわけだし、そのマホメットにJe suis Charlieの札を持たせたのは、良く解釈してはもらえないのではないかと思った。実際にJe ne suis pas Charlieと言っている人がたくさんいるのだし。

つまり、自分の側の論理では、とても寛容で和解的なのだけれど、他者の論理ではどう見えるかに思い及んでいないのではないかと思った。自分のユーモアに対してあまりにナイーブな信頼があるように思った(同じことを意地悪く見れば「自分のユーモアを疑わない傲岸さ」になるのだろう)。

それでも、世界中で反シャルリー・エブドのデモが巻き起こり、キリスト教会が襲われたり、怪我人がたくさん出たり、死者も出るに至ったのには驚いた。抗議のデモをするのは構わないけれども、テロリストを称賛するところまで行くのは行き過ぎだ。あんなにソフトな善意のイラストでもこんなことになるのかと思うと、とても悲しい。ユーモアが通じないということがとても悲しい。

ユーモアは絶対的なものじゃない。誰にでも通じるわけじゃない。文化を共有していないと、笑いは共有できないのだ。

けれど、
「ユーモアを解する人間とユーモアを解さない人間がいるのではなくて、ユーモアが通じる人間関係とユーモアが通い合わない人間関係があるわけで、ユーモアの受容は、能力やセンスよりも、関係性に依存しているのである。」
このシャルリー・エブドの風刺をめぐって、小田嶋隆が日経ビジネスオンラインに書いていた。

「文化」と言ってしまわず、「関係性」という言葉で捉えるなら… 関係性を変えることで、ユーモアを共有できる日が、来るのかもしれない、とぼんやり思う。逆に言えば、関係性が変わらない限り、ユーモアは問題を起こし続けるのだけれど。

フランスでは今、いたるところで表現の自由とその制限の可能性について議論が起こっている。娘も中学の教室で、漫画を見せられて議論をして来た。今回の表紙の絵ではないが、シャルリー・エブドにかつて掲載された漫画をめぐって、「こういうものはさすがに発表すべきでない」という意見が、イスラム教徒でない生徒のなかからも出て来たそうだ。娘自身は、「この絵が描かれたコンテクストを考慮すれば、決してイスラム教徒に悪意のあるものではないことが分かる。ただ、分からない人もいると思う」と意見を述べて来たと言う。


昨日の報道では、週刊紙Journal du dimanche の調査によると「イスラム教徒の気持ちを害することを考慮して、マホメットのカリカチュアは雑誌・新聞に掲載しないほうがよい」とした回答が42%あった。57%は、表現の自由に制限を設けることに反対し「今後もマホメットのカリカチュアは掲載すべき」としている。