2013年1月30日水曜日

ただいま戦争中

ご存知のとおり、フランスは今、戦争中です。
マリ共和国北部を支配するイスラム原理主義の武装勢力が南下してきたため、マリのトラオレ暫定大統領に頼まれてフランスのオランド大統領が仏軍を援軍に出したのが、もう2週間以上前のこと。この数日は、ガオ、トンブクトゥ、キダルと大きな町を次々、奪還したというニュースがフランスのメディアを賑わせています。

ニュースを見ていると、子どもが「フランス軍が来てくれたからもう大丈夫」と言ったり、煙草を手に持ってカメラにアピールする青年(イスラム法の厳格な適用が煙草を禁じていたから)が映ったり、フランスはずいぶんマリの人々に感謝されているらしいです。

そんなに喜ばれているんなら、良いことだよね、と思わないわけではないのですが、戦争というとアレルギーのある日本人の私は、それにしても戦争というのはずいぶん簡単に始まってしまうものだな、という感慨から抜けられません。

オランド大統領が派兵を決めたときは、普段は対立している野党の党首らが次々に国会の壇上に上がって「大統領の決断を支持します」と演説をぶっていたし、国民の大半は賛成で、オランド大統領の支持率は上がっているというし…

戦争といったって、フランスから遠いところに職業軍人が行っているだけですから、国内の日常は別に変わりません。テロがあるかもしれない、と少し警戒度を高めて、私も娘を一人でメトロに乗せないようにしている、というくらい。アフガニスタンのように兵士の中に死傷者が出始めると世間の反応も変わるのでしょうが…

日中戦争をしていた頃の日本も、こんな風だったんだろうな、と思いました。徴兵制があったことだけは違ったけれど。

勝っているという報告と、現地の人にこんなに歓迎されています、というニュース…

しかし、フランスがイスラム武装派を排除したいのは、かわいそうなマリの人たちを助けにフランスが行ってあげました、という話というよりは、友好国マリがイスラム原理主義勢力の支配下に下ってしまっては、フランスの原発のためのウラン鉱がある隣のニジェールが危なくなるから、という事情のほうではないか、と思ってしまいます。

さて、今日のニュースでは、マリ軍を助けるだけでできるだけ早く撤退する、という当初の方針をちょいと変更して、フランス軍はこれからも北上するそうです。理由は、マリ軍にはそれだけの備えがないから。

でも、もともとマリの南部と北部では、居住している民族や宗教なども違うので、今までと同じようには考えられないのではないのかな。

こうして戦争をしている国に住んでいると、いろんなことを考えてしまいます。日本が戦争すると言ったら、とんでもないことだと思うのに、フランスが「国際紛争を解決する手段として*」派兵を行ったら、「マリの人たちを助けていいことね」と思うというのは、なにか矛盾しているように思うからです。多くのことが分からないまま、日常生活が流れていきます。



*追記 「国際紛争を解決する手段として」と、日本国憲法第九条を思い出して書きましたが、マリはもとは北部が独立宣言したけれど国際的には認められず、北部と南部の内戦のようなものだから、そうなるとフランスの派兵は「国際紛争」というよりむしろ「内政干渉」ではないか、とも思えます…
何にしても、良いばかり、悪いばかりということはないのでしょうが、北部の主要都市を「奪還」してマリ国民にも歓迎されているあたりで、フランスは手を引いたほうがよいのではないかな、と思います。

2013年1月13日日曜日

郊外・フランス・作家

1月13日の毎日新聞「今週の本棚」で、「いま行ってみたいパリ」と題した3冊が紹介されています。清岡智比古先生の『エキゾチック・パリ案内』、小野正嗣先生のエッセイ『浦からマグノリアの庭へ』に並んで、マブルーク・ラシュディ著『郊外少年マリク』も選んでいただけました。日本人の紋切り型のパリのイメージを破り、現代のヴィヴィッドなパリを伝えるセレクトで、パリ(近郊)に住んでいる私も読みたくなる紹介です。ぜひご一読を。選者は私の敬愛する翻訳家のくぼたのぞみさん。

今週の本棚・この3冊:いま行ってみたいパリ=くぼたのぞみ・選


実は去る11月21日、東京日仏学院でマブルーク・ラシュディと社会学者の森千香子さんの対談が行われた際、会場に現れ、鋭くも有意義な質問をして去っていかれた方がありました。森さんと中島京子と私の三人は、「あれはいったい誰だ?」「只者ではない」と後で言い合っていたのですが、それがこの清岡智比古先生であると、ほとんど翌日に教えてくださったのが、くぼたさんです。清岡先生のブログに、このイベントのことが書かれていたというお知らせでした。ここにリンクを貼らせていただきます。

LA CLAIRIERE 「郊外」


ここに出てくる「アイシャ」をどう思うか、という質問をラシュディにしたのが清岡先生、だと思います。
「アイシャ」は、不勉強の私は見ていないのですが、2009年にフランスの国営テレビFRANCE2で放映された4篇からなるテレビ映画で、「マリク」と同じ、郊外の団地に住むアルジェリア系移民出身のフランス人女性、アイシャを主人公にした物語。「アイシャ」では、移民のゲットー化した郊外(バンリュー)とパリ、抑圧的なイスラムの伝統とフランスの自由、という対立が描かれ、アイシャにとって「ペリフ(郊外とパリを分かつものの象徴としての首都環状線のこと)を超えていく」ということが大きな課題だったのに対し、「マリク」にはそういうものを感じないが、その点はどうなのか、というのが清岡先生の質問の大意だったと思います。

ラシュディはこれに対し、「アイシャ」の作者、ヤミナ・ベンギギには敬意を持っており、彼女のドキュメンタリー作品は評価しているが、フィクション、特にこの「アイシャ」には、誇張があり、真実と離れていると思う、郊外に住んでいても成功することはできる、自分は今も郊外にすんでいると答えていました。また、イスラム教徒であることがフランスの非宗教性と両立しないとは思わない、ラシュディ本人はムスリムだけれどもそれは個人的なことで、何か発言をするときに「イスラム教徒として」発言するように求められるのは避けている、と明言していました。

これは、フランスの、アルジェリア移民二世の作家の、ふたつの異なるあり方を浮き彫りにして、すごい質問だと私は思いました。またより普遍的にも、ある社会の中で、マイノリティの作家(ひいては作家でなくてもすべての個人)が取り得るスタンスとして代表的なものではないかと思いました。

さて、そのマブルーク・ラシュディですが、現在発売中の『文学界』に、中島京子との対談が載っています。なんだか家内工業的ですが、このときの通訳と、記事にする仕事を私がしました。アイオワ・ライターズ・プログラムでの出会い、映画、団地、デビューにまつわるエピソード、文学におけるユーモア...

同時代作家の息の合った対談です。こちらのサイトで最初の部分だけ立ち読みできますが、

『文学界』2月号

この先のほうが面白いので是非、雑誌をご覧ください。

2013年1月11日金曜日

翻訳について考えたこと(1)

翻訳の話をしようと思います。

もう二ヶ月近く前のことになってしまいましたが、東京へ帰っていた間に、妹に誘われて「翻訳という怪物」というイベントに行きました。柴田元幸、ジェフリー・アングルス、管啓次郎という、翻訳の第一人者の方々のお話で、東京ではしょっちゅうこういう催しをやっているようですが、私は参加する機会などほとんどないこともあり、たいへん刺激的でした。とりわけ、三人がエミリー・ディキンスンの同じ詩を訳して比較討論したのはこの夜の白眉で、私は手元にコピーを持っているのでご紹介したい気もするのですが、この夜のことは『すばる』2月号に詳しく掲載されているとのことですので、そちらをぜひご覧くださいと言うに留めて、その夜、話を聞きながら私の心に浮かんだことをいくつか、特に自分のために書いておこうと思います。




「翻訳者は透明であるべきだ」という考え方について。柴田先生は、それがいかに難しくても「透明な翻訳は可能だ」と考えて仕事をしていると言い、それに対して管先生は、「翻訳自体が新たな創造である可能性」を対置させていました。

一見、対立するように見えるけれども、それは翻訳の二つの面であり、両立すると私は思いました。

これはもちろん「原文に忠実な翻訳をするか、訳者の恣意的で自由な介入を許すか」というのとは次元の異なる問題です。というか、次元の違う問題として私は受け取りました。

私は翻訳はクラシック音楽の演奏によく似ていると思います。こういう発想は、音楽家からはわりとよく聞きますが、言葉の専門家からはあまり聞くことがないように思います。言葉の専門家は「翻訳」というと「言い換え」「移転」の意味のある英語のtranslationをまず思い浮かべるからかもしれません。一方、音楽の「演奏」を意味するinterpretationという言葉は、同時に「解釈」という意味と「通訳」という意味をも持っているので、演奏家は自然に自分の仕事と「翻訳」に親近性を感じるのではないでしょうか。フランス語のtraductionはinterpretationとは意味は異なりますが、「別の形での現れ」という意味合いを持っています。

クラシックの演奏家は、自分の音楽を作るためにチラッと楽譜を参考にするわけではなくて、楽譜を読み込んで読み込んで、「これが作曲者の頭にあった音楽だ」というものを音にするのだと思います。「素晴らしい演奏でしたね」と言われても、「そこに全部書いてある通りです。私はそれを読んで伝えたに過ぎません」と言うでしょう。曲解しないことはもちろん、何も取り落とさず、余計なものを付け加えず、書かれた曲に肉薄して、それを自分の持てるあらゆる技術を駆使して音にすること。

それでも演奏家は自分の演奏が唯一絶対な演奏ではないことを知っています。あきらかに間違った「解釈」というものもありますが、間違っていない解釈で、異なる演奏があることを認めています。第一、たとえ理解した音楽が同じであったとしても、演奏者の肉体的な条件によっても、音色は変わってくるのではないでしょうか…

翻訳者もまた、原文を原語のなかで読み込み、できる限りその言葉やテクストの意味と効果を理解することから始めます。そして理解したものを、移し変えようとする別の言語のなかでできる限り再現しようとするのです。それが「透明であろうとする」努力だと思います。

もちろん、完璧な翻訳が不可能なことは誰でも知っています。

実際のレベルでは、私など自分を省みて思うのですが、語学力も不足して誤読をしたりもしますし、なかなか原文のすべての語彙の正確な重みを掴みきれていないと思います。表現する方の言語にしてもどうしても翻訳者個人の限界があります。現実にはこのあたりが翻訳の障碍のほとんどだと思いますが、柴田先生クラスになると、そういう障碍は最小限に抑えられる自信があるのではないでしょうか。

けれども、そういう翻訳者個人の限界をたとえ理想的に超えたとしても、今度は移し変えようとする言語自体の限界や不自由さがあって、これはどうにもなりません。それでおそらく柴田先生といえども「詩の翻訳は不可能」とおっしゃるのだろうと思いました。

そこで翻訳を原文に照らして「不完全な再現」と言ってしまえばそれで終わりです。でも、実際に翻訳に携わってみると、その経験から、別のものが立ち上がってくるような瞬間に出会うことがある、「新たな創造の可能性」というのは、おそらくそういうことを言っているのではないかと思いました。それは、本人自体が言葉の集積である翻訳者から、言葉が立ち上がってくる瞬間であり、また、原文の言語とは異質な言語の中に、新たなものが生れてくる瞬間です。実際に翻訳作業に携わっていて、私の場合、自分の書く日本語に、いつもそれを感じられるわけではありませんが、そういうスリリングな感覚というものが、あるということがなんとなく分かるような気がします。

しかしいずれにしても、とてもレベルの高い話で、私などはできる限り、語学の勉強に励むところが現実的な目標です。

他にもいろいろ考えたことがあったのですが、すでに長くなったので今日はこれで終わりにします。

2013年1月6日日曜日

四季をあじわう心が育つおはなし

主婦の友社のベストセラー『頭のいい子を育てるおはなし366』シリーズの最新刊、『四季をあじわう心が育つおはなし』のなかに、私の訳した『ハロウィーンってなぁに?』が入れていただけました。



清少納言、松尾芭蕉、小林一茶というビッグ・ネームに並んでいるとは、なんとも恐れ多いことです。
まあ、私の「ハロウィーン」はご愛嬌ですが、四季の風物や行事、日本の文化を味わい、楽しむ心を育むよう工夫してあります。たとえば日本のお正月についても見開き2ページで、伝統的な食べ物や遊び、慣習など絵入りで説明してあります。
毎年、またあらゆる季節に日本に行けるわけではない、フランスで育っている我が子どもたちに、日本のことを教えなきゃいけないな、と思う常日頃、これは良いものをいただきました。

読み聞かせや音読と、長く重宝する一冊。
漢字にはすべてルビがふってありますから、日本国内の子どもはもちろん、海外育ちの子どもたちにもお勧めです。
収録作品は他に、「クリスマスのまえのよる」(クレメンス)、「くまの子ウーフ」(神沢利子)、「ひなまつり」(あまんきみこ)、「しょうぶゆ」(森山京)、「目黒のさんま」(落語)など。

他の『頭のいい子を育てるおはなし』シリーズについては
特設ページへどうぞ ↓
http://blog.shufunotomo.co.jp/atamanoiiko/