2015年1月18日日曜日

シャルリー・エブドのマホメットのカリカチュアをめぐって

先週の水曜日、襲撃されたCharlie Hebdoがテロに屈せず最新号を発行した。発行部数は、700万部(増刷含む)に上るという。マホメット(日本では最近、ムハンマドと言うらしい)がJe suis Charlieの札を持って泣いている姿にTout est pardonéeとキャプションがついた表紙は、発売になる前から話題になり、賛否両論が沸き起こった。

ところで、このキャプションの訳は「すべては赦された」が正しく、日本の報道で目にする「すべては許される」は間違いだ。「マホメットのカリカチュアを描くことは許可されている」という意味ではないので、念のため(これについては1月13日付のブログに書きました)。

私自身は、この表紙には、シャルリー・エブド側からの赦し(「イスラム教が悪いんじゃない。マホメットは泣いている。仲間を殺されたけど、われわれは血の報復は望まない」というメッセージ)を読み、感動的だと思った。泣いているマホメットもキュートで、優しい笑いを誘った。

けれど、イスラム教の人に同じように伝わるかは心配なところがあると思った。イスラム教では予言者の姿を描いてはいけないことになっているということだから、マホメットを登場させたというだけで冒涜にあたるわけだし、そのマホメットにJe suis Charlieの札を持たせたのは、良く解釈してはもらえないのではないかと思った。実際にJe ne suis pas Charlieと言っている人がたくさんいるのだし。

つまり、自分の側の論理では、とても寛容で和解的なのだけれど、他者の論理ではどう見えるかに思い及んでいないのではないかと思った。自分のユーモアに対してあまりにナイーブな信頼があるように思った(同じことを意地悪く見れば「自分のユーモアを疑わない傲岸さ」になるのだろう)。

それでも、世界中で反シャルリー・エブドのデモが巻き起こり、キリスト教会が襲われたり、怪我人がたくさん出たり、死者も出るに至ったのには驚いた。抗議のデモをするのは構わないけれども、テロリストを称賛するところまで行くのは行き過ぎだ。あんなにソフトな善意のイラストでもこんなことになるのかと思うと、とても悲しい。ユーモアが通じないということがとても悲しい。

ユーモアは絶対的なものじゃない。誰にでも通じるわけじゃない。文化を共有していないと、笑いは共有できないのだ。

けれど、
「ユーモアを解する人間とユーモアを解さない人間がいるのではなくて、ユーモアが通じる人間関係とユーモアが通い合わない人間関係があるわけで、ユーモアの受容は、能力やセンスよりも、関係性に依存しているのである。」
このシャルリー・エブドの風刺をめぐって、小田嶋隆が日経ビジネスオンラインに書いていた。

「文化」と言ってしまわず、「関係性」という言葉で捉えるなら… 関係性を変えることで、ユーモアを共有できる日が、来るのかもしれない、とぼんやり思う。逆に言えば、関係性が変わらない限り、ユーモアは問題を起こし続けるのだけれど。

フランスでは今、いたるところで表現の自由とその制限の可能性について議論が起こっている。娘も中学の教室で、漫画を見せられて議論をして来た。今回の表紙の絵ではないが、シャルリー・エブドにかつて掲載された漫画をめぐって、「こういうものはさすがに発表すべきでない」という意見が、イスラム教徒でない生徒のなかからも出て来たそうだ。娘自身は、「この絵が描かれたコンテクストを考慮すれば、決してイスラム教徒に悪意のあるものではないことが分かる。ただ、分からない人もいると思う」と意見を述べて来たと言う。


昨日の報道では、週刊紙Journal du dimanche の調査によると「イスラム教徒の気持ちを害することを考慮して、マホメットのカリカチュアは雑誌・新聞に掲載しないほうがよい」とした回答が42%あった。57%は、表現の自由に制限を設けることに反対し「今後もマホメットのカリカチュアは掲載すべき」としている。


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