2013年5月12日日曜日

映画 『ハンナ・アーレント』

5月10日は結婚記念日でした。




夜は映画にでも行こうということになり、夫が見たいと言ったのが、『ハンナ・アーレント』。

 「ずいぶん真面目な夫婦だよね」「結婚記念日の映画じゃないよね」とぶつぶつ言いながらも、他に面白そうなものがなかったので、夫の提案に従うことになりました。

 (ハーゲンクロイツが背景になっているフランスのポスターは、ちょっとギョッとするので、アメリカのポスターを引用しました。)

 1961年、第二次世界大戦中に数百万のユダヤ人を絶滅収容所に送った責任者、アドルフ・アイヒマンがイスラエルの法廷によって裁かれたとき、アメリカの新聞「ニューヨーカー」の嘱託で、ハンナ・アーレントは裁判を傍聴し、レポートを書きました。その『イェルサレムのアイヒマン、悪の陳腐さについて』が発表されるや、イスラエルまたアメリカ合衆国でユダヤ人を中心とする激しいバッシングを受ける、その事件に焦点を合わせてハンナ・アーレントを描いた作品です。監督はマルガレーテ・フォン・トロッタ。

 行く先がガス室と知っていて数百万の人間を送る列車の手配をしたアイヒマンが、悪魔のような男でなく、ただ命令に従うだけの小役人であった、全体主義のシステムのもとで、凡庸な人間が極悪を犯すということを暴いたハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」のテーゼ。
 それはあまりにも有名で、今日では常識になっていますが、
 発表された当初、ここまで激しい反発を受け、アーレントは多くの友人にも背を向けられたという事実は、私は不勉強でまったく知らず、衝撃を受けました。

 でも、ちょっと考えてみればそれは当然かもと思いました。アーレントにそんなつもりはなくても、アイヒマンを弁護していると取られたのも無理はありません。
「凡庸な人間が命令されたことを仕事として忠実にこなし、自分のやっていることがどういう結果になるかを考えて行動しなかったために究極的な悪に加担する」と言われたら、ほとんどが自分もそうである凡庸な人々はどう思うでしょうか。自分が救われない、責められているように思う人はたくさんいるでしょう。
 それにそういう人は「命令に従っただけなんだから、反抗をしなかっただけなんだから悪くない」と自分を弁護すると思いますが、そうするとアイヒマンまでうっかり弁護してしまうことになる。これは辛い時代を生き延びた当時の人々には耐えられなかったに違いありません。

 アーレント自身はアイヒマンを赦してはおらず、「考えること」「善悪を判断すること」を放棄することによって人は人間でなくなる、と言っているのですが…
 
 アーレントの観察がどれほど正しくても、身内を理不尽に殺されたユダヤ人たちがアーレントの言葉に傷つけられたというのもよく分かりました。アーレントはその上、反抗を組織せず唯々諾々とナチスの指示に従ってユダヤ・コミュニティを指導したリーダーたち、ユダヤ委員会の人々も批判したのです。アイヒマンのやったこととユダヤ人のリーダーのやったこととが同じ理論の上に載るとしても、そのニュアンスには大きな開きがあるのですから、同一線上で語っては当時の人たちに理解されなかったのは当然でしょう。

 同胞や友人に背を向けられても、彼女に発言させたものは何だったのかな、と考えました。「空気を読む」日本社会では、なかなかこういう人はいないだろう、とか、自分だったらどうするだろう、などと、映画の後に入った日本料理店で夫と話しました。彼によれば、ユダヤ・コミュニティは今現在でも、アーレントを赦していないそうです…

 アーレントを一方的に称賛するのではなく、友人からの批判などから多角的に捉えていて、どんな人だったのかがうかがえるような映画でした。性格的なものも分かるような気がしました。

 ドイツ語と英語とヘブライ語が出てきて、フランス語字幕がときどき最後まで読めないのが残念でした。

 私は「アイヒマン、悪の陳腐さについて」を読んでいないので、どうしようかなと思っていたら、翌日、夫が早速、本を買ってきたので、やっぱり読んでみようと思います。

2013年5月4日土曜日

コンピエーニュ

5月2日の木曜日、子どもたちは学校が2週間の休暇中なので、パパの出張にくっついてコンピエーニュに行きました。
パパが働いている間、私は子どもたちとコンピエーニュの街とお城を散歩しました。