2018年10月8日月曜日

四つ葉探しの名人の話

 どこかの地方自治体で四つ葉のクローバーの植栽を作ったら、丸ごと盗まれてしまい、植え直したという記事を目にした。

 四つ葉のクローバーは幸運をもたらすという。それで記事のタイトルは「幸せを独り占めしないで」。しかし、ごっそり持って行く奴も持って行く奴だが、そもそも四つ葉のクローバーというのは、そんなにごっそり植わっているものだっただろうか?

 四つ葉のクローバーを見つけると幸運が舞い込むというのは、四つ葉のクローバーは珍しくて、なかなか見つからないという前提があっての話ではなかったか?

 そんなことを考えているうちに思い出した。
 私は子どもの頃、四つ葉のクローバー探しの名人だったのだ。
 ちょっと探せば必ず、見つけることができた。見つからないということはなかった。友だちと一緒に行けば大抵、私の方が先に見つけたし、たくさん見つけた。私は妙な才能があるな、幸運の星に生まれたのかしらと思ったのを覚えている。

 四つ葉探しを始めたのは、たしか小学校1年生の時だ。住んでいた団地の道を隔てた向こうに草原が広がっていて、シロツメグサやカラスノエンドウやアザミやヘビイチゴなどビッシリ生えていた。子供には格好の遊び場だった。そこは米軍のキャンプの端の端で、ちょっと行くと米兵の家族宿舎が点々と並ぶ立ち入り禁止区域になっていたのだが、端っこの端っこの空き地は大目に見られていたのか柵もなく自由に行き来ができたのだった。

 四つ葉のクローバーのことを最初に教えてくれたのは友人のお母さんだっただろうか。以来、子ども同士の遊びのレパートリーに、四つ葉探しも入って、時々、連れ立って探しに行った。私は暇に任せて一人で探してみることもあった。時には五つ葉、六つ葉のクローバーまで見つかったものだ。もちろん、四つ葉ほど簡単ではなかったが、この手で摘んだことは一度、二度ではない。

 四つ葉というのはたいてい、最後の四枚目の葉だけが小さい。すでに三枚の葉があったところに後から出てきたように、肩身狭そうにまだ二つ折りに閉じているものもある。絵やデザインに描かれるように四枚均等な大きさのものはとても珍しい。四枚目が開いていてかなり他の三枚の大きさに近いものはあるが、四枚が均等な大きさのものはほとんど見たことがない。

 四つ葉のクローバーはどうしてできるかというと、二つ理由があって、一つは葉になる前の原基という葉っぱの赤ちゃん時代に、踏みつけられるなどで傷がつくと三つになるはずのものが狂って四つになってしまったりするのだそうである。もう一つは遺伝子突然変異だそうだ。冒頭のゴッソリ持って行かれた四つ葉のクローバーの株なんてものは、おそらく遺伝子操作で人工的に作ったものなのだろう。

 見つけた四つ葉のクローバーは、家に持って帰って、よく押し葉にした。厚みがすっかりなくなって紙のように薄く平たくなった四つ葉のクローバーを触るのが好きだった。けれどもいつの間にか、押し葉にしたクローバーはどこかへ行ってしまう。あんなに何度も押し葉にしたのに、どうして一枚も残っていないのだろう。

 それにあんなにたくさんの四つ葉を抱えて暮らしていたのに、特に幸運が舞い込んだ覚えがない。とは言うものの、私は事故にも遭わず、病気にもならず、親きょうだいも達者で、特別いじめられもせず、お腹をすかせたこともなく、本人がその時どう思っていたかは別として、今から思えば総じてたいへん幸せな子ども時代を過ごしたのだから、四つ葉のご利益は十分だったのかもしれない。

 友だちと四つ葉探しに夢中になった、そんな年齢をいつか過ぎてしまっても、一人で探してみる習慣はなくならなかった。米軍キャンプ(とその返還後の跡地)は、私にとって中学校に通う通学路だったから、帰り道で野原に座り込むこともたまにはあったし、道端に目を馳せることもないではなかった。遠い高校にバスや電車を乗り継いで通うようになっても、一人で空を眺めに行って草の中に体を埋めたりした折、四つ葉のクローバーをふと探してみようと思うことはあった。いつでもやっていたわけではないけれど、私の才能はまだ枯れていないか、時々試してみたくなったのだ。もちろん、そんなに根を詰めて探すことはなかったから、小学生の頃のように大量の四つ葉を見つけて帰ったりはしなかった。しばらく探して1本見つけると、それで満足したものだ。

 四つ葉のクローバーが見つからなくなったのは、一体いつの頃からだろう。はっきりしているのは、今では一生懸命探しても、大抵一つも見つからないということだ。それも最近のことではない。おや、今日はこんなに探したのに見つからない、そんなことが起こるようになったのはいつだっただろう。少なくとも、30代の私には、もう四つ葉探しの名人の片鱗もなかった。

 私は自分の子ども時代のあの不思議な力が完全に自分を去ってしまったことをぼんやりと悲しく思ったが、そんなものかもしれないと思い、深くは考えなかった。四つ葉のクローバーが見つからなくても、人生、まったく困りはしない。

 そうして四つ葉のクローバーのことなどすっかり忘れて何年もが過ぎ、2011年が巡って来た。東日本大震災に由来する原発事故のために、原発から放出される放射能のニュースに敏感になっていた時、1960、70年代は、原水爆実験のため、空気中にかなりの放射能が含まれていたという情報を知った。私の子ども時代にピッタリ重なる時期だ。

 私は考え直してみた。ひょっとしたら、四つ葉のクローバーがあんなにも簡単に見つかったのは、私に特殊な能力があったのではなくて、あの土地に実際、四つ葉や五つ葉や六つ葉のクローバーがたくさんあったからではないか? 私たちが踏みつけて四つ葉や五つ葉を作っていたのかもしれないし、もしかしたら密かに遺伝子に傷が付いていたのかもしれない。 

 高校を卒業した私は引越しをして、以来、あの野原に戻ったことはない。

2018年10月3日水曜日

かのこしぼりのちゅうやおび

「ちゅうやおび」とは何だろう?

今を去る半世紀ほども昔の話
幼稚園のお遊戯会で踊ったダンスの音楽
というより歌の歌詞が
意味もわからないまま耳に染み込んだ。

・・・・おにんぎょは
かのこしぼりのちゅうやおび
おんきょうきょうとのかみきょうの
いとしおとめがこしらえた
ふりそでにんぎょうはかわいいな

振袖人形の歌だということは知っていた。
愛し乙女が拵えた人形というのも分かる。
京都の上京の乙女が作ったのだろうというのも見当がついた。

ただ「かのこしぼりのちゅうやおび」がわからなかった。

そうして50数年が過ぎた。

ところが最近のこと
ネットで総鹿の子絞りの名古屋帯をしみじみ見ていて
突然、ああ、あれは「鹿の子絞り」の「帯」だということに思い当たった。

だが、「ちゅうやおび」は最後まで分からなかった。

昨日、ふと思い立って調べてみたら、インターネットのありがたさ、
半世紀もの間、知らずに暮らしてきた知識がたちどころに我がものになった。

「ちゅうやおび」は「昼夜帯」なのだそうだ。
今でいうリバーシブルの帯で、元は片面を白い博多織、もう片面を黒繻子の生地で作ったので、昼と夜と名付けたのだという。江戸の町娘が黒い方を角出しにして締めていたようだ。

なるほど謎は解けた。
昼夜帯という呼び方も物自体もなかなか趣があると思った。

ところが、なんだろう、50年も物を知らず、ただ音だけで「ちゅうやおび」という不可思議なものと脳が認識してきてしまったものは、かんたんには頭を去らない。

「ちゅうや」と言えば私の頭に浮かぶのは「中也」あるいは「宙也」で
なんとなく宇宙空間の虚空に浮いているような感じがしている。

それに「帯」がついていると、着物の帯よりは銀河のような、メビウスの環のようなものを、はっきりとではないのだが、想像してしまう。

「ちゅうやおび」は私にとってなんとなく「カンパネルラ」みたいな語彙の仲間なのだ。

「かのこしぼり」も長い間、「鹿の子絞り」とは結びついていなかったのだが、今は8割がた結びついてきて、あの幾何学的なようでいて幾何学的でない小さな点々が、またなんとなく銀河の星に結びついてきている。「昼夜帯」の知識もこれから私の「ちゅうやおび」と混じり合いつつ、昼と夜とが自在に交替するメビウスの環を喚起してくれるのだろうか。

「かのこしぼりのちゅうやおび」が欲しいな。

いつか本当に美しい「鹿の子絞りの昼夜帯」を手に入れたら
「かのこしぼりのちゅうやおび」の片鱗でも、感じることができるだろうか。

2018年10月1日月曜日

アズナヴール

シャルル・アズナヴールが亡くなりました。94歳。お年だから仕方がないとは思うけれど悲しいですね。






Emmenez-moi 
Au bout de la terre 
Emmenez-moi 
Au pays des merveilles 
II me semble que la misère 
Serait moins pénible au soleil. 

お久しぶりです

ブログを全然書かなくなってしまっているのを反省して、また書こうと思っています。

書かなくなってしまった理由は、毎日、日本でフランスでまた世界で、恐ろしいことや許しがたいことが起こるので、そうしたことに言葉を失ったり、一々反応して何かを書くには時間がない、一方、そうしたことに触れないで、自分の生活のこと、お気楽なことばかり書くのはどうなのかと思い、つい沈黙してしまうためでした。

でも、そうして黙っていれば良いというものでもないし、短く簡単なものでも書いていこうと思います。

昨日は、沖縄知事選で玉城デニー候補が当選して、とても嬉しかったです。
日本政府の強権に押しつぶされず、見事な抵抗をした沖縄の方々に深い尊敬の念を感じます。日本が変わっていく、日本の民主主義が育っていく足がかりが沖縄から生まれたように思います。




2018年1月26日金曜日

羊男になりました

「Soldeになってから」と子どもたちが言うので、ようやく今日になってクリスマスプレゼントが届きました。

去年のこと、ムスメが休みの日に怠惰に一日着たままでいるコンビネゾンのパジャマが楽そうでいいなと言ったら、ムスメが即座に
「クリスマスに買ってあげる。ぶたがいい? パンダがいい?」

私は下着チェーンEtamで見た、スエットスーツみたいなのを想像していたので、
「ぶたでもパンダでもないのはないの?」と訊いたら、

「あるけどあったかくない。フリースのあったかいのが欲しいなら動物選んで」

というわけで、ネットのカタログをにらみながら、パンダかぶたか、うさぎにするかはたまたシロクマにするか悩みました。

熟慮の末選んだのはうさぎだったのだけど、ショップに行ったらなくて代わりに羊があった。
サイズもちょうどよいSが売り切れだったので、ひとつ大きいMを頼みました。

でも届くまで想像もしていませんでした。



羊男になった!


2018年1月10日水曜日

2018年の初めに

明けましておめでとう。
と言える日を過ぎてしまってごめんなさい。


初日

クリスマス休暇は明け、子どもたちも学校に戻り、普通の日々が始まっています。

クリスマスは慎ましくも家族で少しだけ豪華な食卓を囲みましたが、年越しは家でカンフー映画を観て過ごし(私の2018年最初の映画が『カンフー・サッカー』というのは!)、お正月はお雑煮だけは祝いましたが、おせち料理はもとより作らなかったし、公現祭(16日、三人の博士が生まれたキリストを見に馬小屋にたどり着いた日ということで、クリスマスの一連の行事の最後)の恒例のガレット・デ・ロワは家族が嫌いなので食べなかったし、七草粥を作ろうかと思ったけれど二草しかなかったので、どうしたものか迷ったあげく、やはり二草では健康維持にも役立たなかろうと作りませんでした。年賀状ももうほとんどいただきもしないので出さず、ブログのご挨拶も今日になってしまいました。

こうしてちょっと考えると、なんとなく軽く人間失格のような気がしてきます。この落ち込んだ気分を変えるには、明日の鏡開きにお汁粉をつくるべきだろうか… 鏡餅を持っていないのだけど。


歳を取ったということなのでしょうか。年が改まることが、年々、ちっともめでたい気がしなくなってしまっています。父の命日が1229日ということも少し影響しているのでしょうか。そうかもしれないということで少しだけ言い訳にさせてください。

2017年は、一冊の本も出せず、何ということもしないままに過ぎた、今となっては痛恨の年でした。誇れることといったら、夏に始めた水泳ダイエットをやめずに続けていることくらいか… 
水泳はやってもやっても体重は減らず、ダイエットとしては成功していないかもしれないのですが、体重は減らない代わりストローク数は確実に減りました。考えてみれば、水泳をやれば水泳が上達するのであって体重が減るかどうかはそこまで直接的な関係はないのかもしれません…
やっているうちに段々、ストローク数が減るのが楽しみになり、ストリームラインというのを習得したらしくスーッと前に進むようになって、あまり疲れず泳げるようになったので、今ではダイエットは副次的効果として密かに期待はしつつも、メインは健康維持と割り切って通っています。
そして今や、自分はダメな人間なんじゃないかという、ネガティブ思考が時々胸をよぎるときに、私を支えてくれるひとつのよすがともなっています。

なんともお祭りっぽくない年末年始でしたが、三が日は何をして過ごしていたかというと、息子に頼まれて数学の宿題を手伝ったり、チェスの勉強をしたりしていました。数学は家庭教師代を浮かせるため、チェスは息子の挑戦を受けて立つためです。
まさかこの歳になって高校で脱落した数学をやり直すとは思いませんでしたが、息子のためとなると献身的な母親は、けっこう難しかった宿題を全問解きました。40年前にこの熱意があれば国立大学も行けたかも、と40年前に息子がいなかったことをちょっと悔やみました。チェスは息子に2回連続して負けましたが、ふだん使わない脳みそを使ったせいか、痛いわけではないけれどなんとなく脳の筋肉痛のようなものを感じ、これをやっているとニューロンが殖えるのではないか、と感じました。

2017年10月12日木曜日

『温かいスープ』の感想

 この文章について書こうと思ったのは、もう4年も前のことだ。当時、ムスメが日本でいう中3の年齢で、大使館でもらってきた国語の教科書に載っていたのをふと読んだ。面白かったのでそのことを書こうと思ったのだ。
 なのに書かないままもう4年… 怠け者の私の頭のなかには、こういうものが、いっぱいある。買ったのに読んでいない積読状態の本と同じくらい。
 しかし今日は書くことにしよう。ちょうど昨日、ムスコが日本語の家庭教師の先生とこの文章を読んでいたからだ。その文章とは、
今道友信先生の『温かいスープ』 (←読んでみたい方はこちらのリンクをどうぞ)。

 1957年に今道先生がパリの大学で非常勤講師を務めていたときの話だそうだ。
 現在、パリに住んでいる私が何より興味を惹かれたのは、今道先生が下宿を求めて門を叩いた家で、「戦争で義弟が日本人に殺されているので、日本人だけは下宿させたくない」と断られたというエピソードだ。

 これは隔世の感がある。今日、日本はフランス人にとっては、良いイメージの国で、「今度の旅行は日本に行きたい」というフランス人はザラにいるし、日本の漫画の翻訳量はすごい。日本のアニメやSUSHIは大人気だ。いや、私がフランスに来た1980年代だって、今ほど好感はされていなかったとはいえ、「日本人だけは下宿させたくない」などという話は聞いたことがない。1957年には日本人は嫌われていた。そういう時代だったのか、と知ったことが私には貴重だった。

 そう、この文章で断トツにインパクトがあるのは、冒頭のふたつの段落である。二つ目の段落は上に書いた下宿のエピソードだから紹介は済んだことにして、書き出しの部分はこうだ。

 第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、1945年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなくてはならない。そのような状況であったから、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日本人もみじめな時代があった。

 これはすごい、と私は思った。中学三年の教科書には、こういうことがちゃんと書かれているのだ! 恥ずかしながら私は、日本がオリンピックに出られなかったことを知らなかった。調べたら、1952年のヘルシンキ・オリンピックが日本が16年ぶりに出場できた夏季オリンピックだそうだ。
「かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなくてはならない」
 この部分がなにを言っているのか、全国の国語の先生が、きちんと中学生たちに説明しているとしたら、それはとても良いことだ。「独善的」という言葉の意味となぜかつての日本の民族主義が「独善的」だったかを先生といっしょにムスコに説明しながら、私はそう思った。

 しかし、私が感銘を受けた冒頭部分は、この文章全体から見ればイントロダクションに過ぎなかった。第一段落の結びの文は、
「その頃の体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き記しておきたい」となっていて、素晴らしい冒頭部分は、どうもただの時代背景の説明であったらしい。私はこのことを少々残念に思う。

 『温かいスープ』を改めて読んでみると、この文章のテーマは「国際性」ということであるらしい。今道先生は、第一段落で、「日本と日本人のおかれた国際的にみじめな状況」という一般論から始め、第二段落で、それをご自身のパリでのみじめな状況という例に収斂させる。そして第三段落以降で、ご自身のパリでの経験、心温まる経験を対置させる。そして最後にまた、自分の体験を一般論に敷衍して「国際性とはなにか」を結論する。こういう構造になっているのだ。ちなみに結論部分は、

 国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じらいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。           

 とまとめられていて、試験問題で「筆者は国際性をどういうものと捉えていますか」とか「筆者はこの文章で何が訴えたかったのでしょうか」とでも問われれば、間違いなくここからコピペしなければならないような文章が並んでいる。

 しかし、奇妙なことに、この味わい深く感動的な『温かいスープ』という文章のなかで、最も印象に残らないのは、明らかに、この結論部分なのだ。
 4年前に読んで面白いと思っていたこの文章、私の記憶の中の文章に、「国際性」の三文字はなかった。そんなものは、すっかり忘れ果てるほど、印象が薄かったのだ。

 その代わりに、はっきりと記憶に残っていたのは、通い詰めたパリの小さいレストランで、お金がなくて軽いものしか注文できなかった今道先生に、店の人がおごってくれた「温かいスープ」のこと。

 私にとってこの文章は、「戦後、国際的に旧敵国として日本がマイナスの評価を受けていた時代にパリに渡った貧しい留学生(講師だったというから正確には留学ではないが、そのあたりは記憶では飛んでいた)が、通いつめたレストランで親切にしてもらったお話」だった。

 私は孤独な留学生だった体験も持っているし、家族を伴わずに在外研究でパリにいた父が、味気ない自炊に嫌気がさすと美味しいもの食べたさに一人で通っていた小さなイタリア料理店で、顔なじみになり親切にされていたのも見聞きしている。今道先生がそのレストランでどんなに心和んだか、分かるような気がする。

 寒い戸外と温かいレストランの内部、街路から見たなら、ぽっと明るい灯が点っているような場所、その魂のような温かいオニオン・グラタン・スープ。それは本当にみごとなイメージで、読む者の心を暖かくする。

 なので今回、読み直してみて、結論に関してだけは、「このとってつけたようなつまらない結論はいったいなんだろう」と考えてしまった。

 結論の直前の段落は良い。

こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私がフランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。

 ここには、素直な感動が溢れている。なのにどうして、あの妙な「国際性」云々(うんぬん)の結論が続いてしまうのだろう。「国際性」という奇妙な言葉自体、定義されていないし、人情が深く沁み入る、とても幸せな体験をしたというエピソードがどうしてその不思議な概念に結びつくのか、まったく書かれていない。具体的なエピソードから、抽象的な一般論に飛躍するとき、今道先生は失敗していないだろうか。

ここは「私はそのとき、あの人たちにとって、お金のない、お腹を空かせた、馴染みのお客であって、旧敵国日本の人間ではなかった。そして縁のない親しみの持てない国の出身者であっても、そこでお腹を空かせている一人の人間として暖かい手を差し伸べてくれる人がいるということに、私は人間というものへの希望を見いだしたのである。」とでもいうような結論が来るべきなのではないかと私は思った。

 もうひとつ、疑問に思ったのはパンの話だ。お金がなくてオムレツしか注文できない今道先生のところに、ある時から給仕の娘がパンを二人前持って来てくれるようになる、という件だ。二人前持って来てくれるけれどお勘定は一人前… 
 良い話なのだが、私の知っている限り、フランスのレストランではパンにお代は取らないのだ。日本では、一食につき、ついてくるパンはフランスパン一切れとロールパン一つで、それ以上食べたいときは追加料金を取られるけれど。
 1957年には、パリでもパンにお金を取っていたのかな〜、とぼんやり考えるけれど、少なくとも私の知っている1980年代以降のフランスでは、パンはいくらでも追加してもらえる。
 なので、今道先生のところにも、パンのかごが空になっていたのでもう一つ持って来てくれたというだけなんではないかな、と思いました。


 と洩らしたところ、ムスコは即座に「でも、スープを持って来てくれたのは親切なんだよ」と返し、だから、論旨に問題はないと今道先生を弁護しました。もちろん、私もそう思っていますよ。