2013年9月7日土曜日

オリンピック東京招致に思う

明日には、2020年のオリンピック開催地が決まります。

あなたがこの文を読むときには、もう決まっているかもしれない。

決まる前に、東京生まれで東京に実家のある私は、東京にオリンピックが来ることを望まない、ということを書いておきたいと思います。

この夏、東京に里帰りしたとき、小学校の、道に面したフェンスに、「この国には夢の力が必要だ」という大きな垂れ幕を目にして、私はぎょっとしました。オリンピック招致のスローガンと知って、とても嫌な気持ちがしました。

東日本大震災と原発事故のため、東北はいまだ立ち直れないほどの打撃を受け、関東地方も放射線の脅威にさらされています。

深刻に、国の建て直しを図らなければなりません。

だから「夢」が必要だ、と言われると、なんとなく分かるような気がする。

けれど、それがオリンピックなの?

東京でオリンピックをやると、東北が復興するのですか?

東北の、被災地の、そして原発事故で生活の糧を失った人たちが、東京のお祭り騒ぎで「夢」を持てるのですか?

東京人だって、お祭り騒ぎでできるのは、不安を忘れて見ないフリをすることだけではないですか?

この国に必要なのは、夢じゃない、現実を直視する力です。

オリンピック招致にブエノスアイレスくんだりまで都知事や都議会議員が大挙して行って、首相が世界を相手に大法螺吹いてくることではなくて、

福島第一原発の汚染水漏れを止め、確実に収束作業ができるように、実効性のある解決策を練って実行することです。

オリンピック招致やオリンピック準備に使える予算があるのなら、原発事故の収束のために使ってください。最高の技術の投入や、作業員の待遇改善のために使ってください。

そうして、日本を本当に安全な場所にしてから、世界中のトップアスリートをお迎えさせてくださいと手を挙げるのが礼儀ではありませんか?

今の東京は、世界中のアスリートと応援の方たちを、お迎えできるような安全な場所ではありません。

福島第一原発は、汚染水が溢れ出して、収束作業ができなくなったら、あるいはまた大きな地震や竜巻などが起こって、すでにかなり壊れている原子炉や使用済み燃料棒が保存されているプールがさらに破損されたら、どんな恐ろしいことになるか分からない状態なのです。

神のご加護かなにかで現状が保たれたところで、東京は、それなりに放射線量が高く、水も、食べ物も汚染されているのです。東京が全部、チェルノブイリ並み、とは思いませんが、東京の一部に、本来なら放射線管理区域になるくらい放射線量の高い地域があるというのは本当だと思います。

東京に家のある人が住んでいるのは仕方がないかもしれない。
けれど、今は、外国のお客様を迎える場所ではないし時でもないと思います。

東京に決まらないことを心から祈っています。

2013年9月3日火曜日

親の出番

今日は息子が初めて中学に行く日。

日本語を公立の中学校の正規授業で学ばせてくれるパリ16区にあるラ・フォンテーヌという学校に行かせようと思ったママの思惑は失敗し、コパン(仲間)といっしょに近くの公立校に行く、と言い張った息子の意志が通って、あきらは晴れて、この辺りで一番、評判の悪い中学に、お姉ちゃんとともに通えることになりました。

評判が悪いとは言っても、地域柄、荒れた学校ではないのですが、実は我が家の真ん前には、全国的にも名の通った、中高一貫の私立名門校があるのです。私立校には、カトリックのフランス人家庭の、見た目にも「白い」子弟が集まり、公立校はそうでない、ユダヤ系、プロテスタント、そしてイスラム系の移民子弟が溜まっています。まあ、こうなると我が家は当然、公立校のタイプ。ちなみに娘の話によれば、この二つの学校の生徒は互いに反目しているとか。

さて、フランスは入学式というものがないので、親にはまるで出番がありません。あきらは、もうママはいらない、お姉ちゃんに連れてってもらう、と豪語していたのですが、ドイツ語のクラスに入れたかどうか知らせてくる手紙が届いていなかったので、万が一、問題があった場合にはママがいた方が良いということで、どうにかいっしょに行かせてもらえました。

ドイツ語のクラスというのは、中一からドイツ語を勉強できるクラス。英語はいずれにしろ必修なので、外国語をふたつやるわけです。ドイツ語好きの夫の希望で、あきらはやらされることになりました。夫は小学校へ送る道々、息子にドイツ語をこっそり仕込んでいたのです。

予定の9時にどっと敷地内に入った新入生とその親たち。クラスが発表された掲示板の前はたいへんな人だかりで、気の弱いあきらはとても近づけず、「見えなかった」と押し出されてくる始末。結局、ママが果敢に割り込んでいって、ドイツ語のできるA組だということを確かめたので、今回、私の出番は、これだったということになるかもしれません。

あきらは聞いたとたんに、「ガブリエルといっしょだ」と、喜んで友だちのところへ駆けて行きました。親はもう何もすることがないとはいえ、それでも、お姉ちゃんのときは、一応、親も教室に招きいれてくれたのに(しかし一体なんのため? と疑問に思いながらすぐ階段を下りるはめになったのでしたが)、今回は、入り口の外にたむろしている親子たちに向かって、「第六学級A組」と担任が呼びかけると、ぞろぞろと子どもだけが入っていくという、実にあっけない儀式でした。

涙をこらえて「ママ、もう行ってもいいよ」と言った、8年前(幼稚園に入った年)とは様変わりでしたが、どうしているかな、と一日中、気になったのはまったく同じ新学期の初日でした。

2013年9月2日月曜日

きりをつける

長かった夏休みもとうとう終わり。

子どもたちはついさっき、私が復習のためにやらせている漢字ドリルを一冊、終了したところ。みつは3年生下、あきらは4年生上を終わりました。



日本語補習校では、それぞれ5年生、6年生の教科書を勉強していますが、漢字の能力はずっと低くて、教科書の勉強にも多少、支障が出てきている。このギャップを埋めるべく、3月ごろから始めた復習ドリル。みつは2年生、あきらは3年生からスタートしました。一日2ページのペースで、夏休み中に進んだのは、およそ1冊分くらいですが、夏休みの最終日に、きりよくドリルを仕上げたふたりは、よくやったと思います。


ご褒美に…

明日から新しいドリル。
というのは冗談ではありませんが、
褒めてあげたい気持ちです。


私のほうは、さぼりまくったブログ。
いろいろ書くべきことがあるのだけど、書けずに時間が過ぎてしまい、ますます書けなくなる悪循環に陥って、褒められたものじゃないのですが、
でも、どこかで始めなければということで、キリが良いから、ここで再開。

明日は9月3日、あきらの中学校第一日です。

2013年6月26日水曜日

もうすぐ、じゃあね

どんなことにも最後の一回がある。

きのう、早朝出勤した夫に代わって、息子を学校へ送って行く途中、ふとこれが最後の一回だということに気がついた。

「もうすぐ、じゃあね」と息子が言う。

これは、「もうちょっと行ったところでお別れしましょう。後は一人で行くから」という合図。何年か前、まだ小さかった息子が、私の手を握りながら、初めて「もうすぐ、じゃあね」と言ったとき、わたしはきょとんとした。

普段、彼を送る役目の父親は、学校まで行ってバス停まで引き返すのを億劫がって、ちょっと前から、バス停のある大通りまで来ると、そこでお別れする習慣になっていたらしい。息子のほうは、そこから一人で学校へ行くのを誇らしく感じていたので、たまたま付き添いが母親に変わったからといって、勝ち取った自立を失ってなるものか、と思ったらしいのだ。

でも、「じゃあね」のところまでは、お手手をつないで行くからね、とばかりに握り締めた手がかわいらしく依存と自立の実に微妙なところを生きている子どもの気持ちが伝わって来たのだった。

自分で決めた地点まで来ると、「じゃあね」と言って私を置いて行った息子。それからは、学校の門まで送らず、途中で「じゃあね」をするのが習いになっていたのだが、
「あきら、ママが来るのは今日が最後だから、もうちょっと先まで行ってもいいかな?」

思えば上の子が幼稚園に入ったときから、この子が小学校を卒業する今年まで11年、この同じ学校に日々、送り迎えに通ったものだ。11年の日常と、「もうすぐ、じゃあね」。この道を子どもと通うことは、もう二度とないのだ。

中学生になれば、空手の付き添いもいらなくなるだろう(現に、私の行かれない日はもう一人で行っているのだ)。子どもの手が離れるのは、私はいろいろ楽になって歓迎しているのだし、その一方、オペラ座界隈までメトロで出かけていかなければならない日本語の学校の付き添いは、まだしばらく続くだろうから、息子とふたりの道中がまったくなくなるわけではないのでそう寂しくはないし、学校の送り迎えがなくなるからといって格別、感傷的になるわけではないのだけれど、こうして特別なショックもないまま、少しずつ少しずつ、子は親離れし、親は子離れしていくのだな、と思った。

学校の門が見えるところまで送って「はい、それじゃ、じゃあね」と言うと、息子もこころなしか名残惜しそうにして、いなくなった。

息子はまだ今週末まで学校に行く。見送りは夫がするので、私にはこれが最後だけれど、お迎えのほうは最後の金曜日が残っている。
私は今、「もうすぐ、じゃあね」の気分。
金曜日、お迎えに行ったら、出てきた息子をぎゅっと抱きしめたい気持ちがするかもしれない。

けれど、おそらくそんなことはしないだろう。いつもと同じように、顔で挨拶して、「今日はどうだった?」と訊き、彼は「よかった」と答えるだろう。いつもと同じように。

2013年6月18日火曜日

マブルーク・ラシュディの、日本を舞台にした小説「クリモ・モン・フレール」


すっかり宣伝が遅くなってしまいましたが、『文学界』7月号に、『郊外少年マリク』の著者、マブルーク・ラシュディによる短編、「クリモ、モン・フレール」が載っています。
翻訳は私がしました。よかったら手にとってみてください。

来日した作家に、日本の印象記を書いてもらうというのはよくあることのようですが、昨年11月にマブルーク・ラシュディに会った『文学界』の編集者が、彼に惚れこんで、書き下ろしの短編を依頼したのです。

日本と関係のあることを書け、という注文はなかったのですが、日本の雑誌に書くのだからと頑張ったラシュディ。たった一週間足らずの滞在で、講演や取材に振り回されていたにも拘わらず、Lost in translation のような表面的なガイジン日本体験記に終わらず、彼独自のものを書き上げたのはすごいなと感心しています。

タイトルの「クリモ、モン・フレール」は、「クリモ、私の弟」という意味になりますが、作中に出てくる映画のタイトル Aniki, mon frère のもじりです。Aniki, mon frère というのは、実は北野武史の映画、Brother のフランス公開時のタイトル。そういうわけで、「ヒロシマ、モナムール」のノリでカタカナタイトルにしてみました。ん? 『ヒロシマ、我が愛』だったっけ?

ま、いいや。ご紹介のため、冒頭だけコピー。

<以下、引用>


 全日空の時刻表は見かけだましだ。一九時三〇分にパリ、シャルル・ド・ゴール空港を発ち、東京、成田空港に一五時二五分に着くNH二〇六便の飛行時間は、二〇時間でなく、時差のため「たった」一二時間だそうだ。いくつものメダルに覆われた小さな螺鈿の箱を胸に押しあてて、リラは旅の間じゅう、ずっと毒づいていた。心配になった客室乗務員は、彼女がため息をつくたびに、いやまさる愛想の良さで対応した。弟のクリモに押し付けられた果てしない旅。リラは生れて初めて、両親が止めるのを押し切って弟のわがままを通したのだ。クリモは頑固な性格ではあったが、いつもは家族の意見が優先だった。例外が認められたのは、場合が場合だったせいだ。クリモは彼女の手のなかに、骨壷に納まっていたのだ。

 

 アブデルクリム・ゼマンの最期の望みは、午前九時に大阪のワールド・トレード・センターから、灰になった自分を撒いて欲しいというもので、最後から二番目の望みは、火葬にしてもらうことだった。このふたつは両方とも理解されがたかった。イスラムのしきたりによれば、彼、通称クリモは、土葬になるべきだったし、この十六歳の少年は、日本と何も直接のつながりがなかった。両親は、断末魔の苦しみにもだえて頭がおかしくなったのだと考えた。その証拠に、なぜ九時で、十五時でも十八時でもないのか。なぜエッフェル塔でもピサの斜塔でもドバイのブルジュ・カリファでもなく、大阪のワールド・トレード・センターなのか。クリモの死の床に付き添ったリラは、彼の言うとおりにすると、コーランに誓ってしまっていた。こんな約束を、果たす羽目になるとは思っていなかったのだ。弟はまだあまりにも若かった…… 誓い、しかも聖なる誓いで身動きがとれなくなったリラは、あちらを立てればこちらが立たないふたつの宗教的戒律の間で引き裂かれ、どうせ地獄の火に焼かれるなら、いっそのこと弟といっしょになってやれ、と思った。


後はどうぞ、『文学界』でよろしく。

2013年5月12日日曜日

映画 『ハンナ・アーレント』

5月10日は結婚記念日でした。




夜は映画にでも行こうということになり、夫が見たいと言ったのが、『ハンナ・アーレント』。

 「ずいぶん真面目な夫婦だよね」「結婚記念日の映画じゃないよね」とぶつぶつ言いながらも、他に面白そうなものがなかったので、夫の提案に従うことになりました。

 (ハーゲンクロイツが背景になっているフランスのポスターは、ちょっとギョッとするので、アメリカのポスターを引用しました。)

 1961年、第二次世界大戦中に数百万のユダヤ人を絶滅収容所に送った責任者、アドルフ・アイヒマンがイスラエルの法廷によって裁かれたとき、アメリカの新聞「ニューヨーカー」の嘱託で、ハンナ・アーレントは裁判を傍聴し、レポートを書きました。その『イェルサレムのアイヒマン、悪の陳腐さについて』が発表されるや、イスラエルまたアメリカ合衆国でユダヤ人を中心とする激しいバッシングを受ける、その事件に焦点を合わせてハンナ・アーレントを描いた作品です。監督はマルガレーテ・フォン・トロッタ。

 行く先がガス室と知っていて数百万の人間を送る列車の手配をしたアイヒマンが、悪魔のような男でなく、ただ命令に従うだけの小役人であった、全体主義のシステムのもとで、凡庸な人間が極悪を犯すということを暴いたハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」のテーゼ。
 それはあまりにも有名で、今日では常識になっていますが、
 発表された当初、ここまで激しい反発を受け、アーレントは多くの友人にも背を向けられたという事実は、私は不勉強でまったく知らず、衝撃を受けました。

 でも、ちょっと考えてみればそれは当然かもと思いました。アーレントにそんなつもりはなくても、アイヒマンを弁護していると取られたのも無理はありません。
「凡庸な人間が命令されたことを仕事として忠実にこなし、自分のやっていることがどういう結果になるかを考えて行動しなかったために究極的な悪に加担する」と言われたら、ほとんどが自分もそうである凡庸な人々はどう思うでしょうか。自分が救われない、責められているように思う人はたくさんいるでしょう。
 それにそういう人は「命令に従っただけなんだから、反抗をしなかっただけなんだから悪くない」と自分を弁護すると思いますが、そうするとアイヒマンまでうっかり弁護してしまうことになる。これは辛い時代を生き延びた当時の人々には耐えられなかったに違いありません。

 アーレント自身はアイヒマンを赦してはおらず、「考えること」「善悪を判断すること」を放棄することによって人は人間でなくなる、と言っているのですが…
 
 アーレントの観察がどれほど正しくても、身内を理不尽に殺されたユダヤ人たちがアーレントの言葉に傷つけられたというのもよく分かりました。アーレントはその上、反抗を組織せず唯々諾々とナチスの指示に従ってユダヤ・コミュニティを指導したリーダーたち、ユダヤ委員会の人々も批判したのです。アイヒマンのやったこととユダヤ人のリーダーのやったこととが同じ理論の上に載るとしても、そのニュアンスには大きな開きがあるのですから、同一線上で語っては当時の人たちに理解されなかったのは当然でしょう。

 同胞や友人に背を向けられても、彼女に発言させたものは何だったのかな、と考えました。「空気を読む」日本社会では、なかなかこういう人はいないだろう、とか、自分だったらどうするだろう、などと、映画の後に入った日本料理店で夫と話しました。彼によれば、ユダヤ・コミュニティは今現在でも、アーレントを赦していないそうです…

 アーレントを一方的に称賛するのではなく、友人からの批判などから多角的に捉えていて、どんな人だったのかがうかがえるような映画でした。性格的なものも分かるような気がしました。

 ドイツ語と英語とヘブライ語が出てきて、フランス語字幕がときどき最後まで読めないのが残念でした。

 私は「アイヒマン、悪の陳腐さについて」を読んでいないので、どうしようかなと思っていたら、翌日、夫が早速、本を買ってきたので、やっぱり読んでみようと思います。

2013年5月4日土曜日

コンピエーニュ

5月2日の木曜日、子どもたちは学校が2週間の休暇中なので、パパの出張にくっついてコンピエーニュに行きました。
パパが働いている間、私は子どもたちとコンピエーニュの街とお城を散歩しました。