2013年6月26日水曜日

もうすぐ、じゃあね

どんなことにも最後の一回がある。

きのう、早朝出勤した夫に代わって、息子を学校へ送って行く途中、ふとこれが最後の一回だということに気がついた。

「もうすぐ、じゃあね」と息子が言う。

これは、「もうちょっと行ったところでお別れしましょう。後は一人で行くから」という合図。何年か前、まだ小さかった息子が、私の手を握りながら、初めて「もうすぐ、じゃあね」と言ったとき、わたしはきょとんとした。

普段、彼を送る役目の父親は、学校まで行ってバス停まで引き返すのを億劫がって、ちょっと前から、バス停のある大通りまで来ると、そこでお別れする習慣になっていたらしい。息子のほうは、そこから一人で学校へ行くのを誇らしく感じていたので、たまたま付き添いが母親に変わったからといって、勝ち取った自立を失ってなるものか、と思ったらしいのだ。

でも、「じゃあね」のところまでは、お手手をつないで行くからね、とばかりに握り締めた手がかわいらしく依存と自立の実に微妙なところを生きている子どもの気持ちが伝わって来たのだった。

自分で決めた地点まで来ると、「じゃあね」と言って私を置いて行った息子。それからは、学校の門まで送らず、途中で「じゃあね」をするのが習いになっていたのだが、
「あきら、ママが来るのは今日が最後だから、もうちょっと先まで行ってもいいかな?」

思えば上の子が幼稚園に入ったときから、この子が小学校を卒業する今年まで11年、この同じ学校に日々、送り迎えに通ったものだ。11年の日常と、「もうすぐ、じゃあね」。この道を子どもと通うことは、もう二度とないのだ。

中学生になれば、空手の付き添いもいらなくなるだろう(現に、私の行かれない日はもう一人で行っているのだ)。子どもの手が離れるのは、私はいろいろ楽になって歓迎しているのだし、その一方、オペラ座界隈までメトロで出かけていかなければならない日本語の学校の付き添いは、まだしばらく続くだろうから、息子とふたりの道中がまったくなくなるわけではないのでそう寂しくはないし、学校の送り迎えがなくなるからといって格別、感傷的になるわけではないのだけれど、こうして特別なショックもないまま、少しずつ少しずつ、子は親離れし、親は子離れしていくのだな、と思った。

学校の門が見えるところまで送って「はい、それじゃ、じゃあね」と言うと、息子もこころなしか名残惜しそうにして、いなくなった。

息子はまだ今週末まで学校に行く。見送りは夫がするので、私にはこれが最後だけれど、お迎えのほうは最後の金曜日が残っている。
私は今、「もうすぐ、じゃあね」の気分。
金曜日、お迎えに行ったら、出てきた息子をぎゅっと抱きしめたい気持ちがするかもしれない。

けれど、おそらくそんなことはしないだろう。いつもと同じように、顔で挨拶して、「今日はどうだった?」と訊き、彼は「よかった」と答えるだろう。いつもと同じように。

1 件のコメント:

  1. なにげない日常にもさよならはやってくる。そうですよね。それを思って、家族って良いなあと思いました。私ももう46歳。最後の婚期ですけれども、子供を学校に送り迎えする境遇になってみたいと思っております。無縁仏になる事が定めの私に、環境の変化は訪れるのであろうか? 中島さんが羨ましい。子供の小さい手を欲している私でありました。♡^^

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