2015年4月27日月曜日

成績会議

 今、フランスは春の復活祭休暇の真っ最中ですが、休暇に先立つある日、私は子どもの通う中学の成績会議に出席しました。実は今年度、ムスメのクラスの保護者代表になっているのです。

 成績会議というのは文字通り、生徒の成績を確定する会議です。こんな会議に教師だけでなく、生徒代表と保護者代表も参加するというのは驚きですが、生徒代表や保護者代表には、生徒を弁護する役割が与えられているのだそうで、こんなことが始まったのは1968年の5月革命以後のこと、といっても既にかなり歴史があります。

 保護者代表の任務は保護者を代表して意見やクレームを伝えて来ることと、親御さんたちから子どもの成績について質問があった場合に、個別、会議で言われたことをお伝えすること、そして、後で簡単な報告書を作ることです。なんでそんなものに、フランス語の不自由な外国人がなっているかというと、ちょっと訳があるのですが、長くなるのでその話は別の機会に。

 1学期の会議のあった12月に日本に帰国してしまった私には、これが初めての経験です。「一人一人の成績を検討するときは、かなり速いから覚悟してメモとってね」と保護者会会長に言われるまでもなく、フランス人たちがまくしたてるのを漏れなく速記できる自信はからっきしありません。

 けれど私には秘密兵器があるのです。それは最近とうとう、人より二周りも遅れてゲットしたiPhoneに搭載されていたディクターフォン! 
 これが気に入っているのです。ピアノの練習中に自分の弾いている音を客観的に聴くためにやる録音。以前は性能の悪いレコーダーを使っていたため、実際上手くないピアノが、いやが上にも下手くそに聞こえるのに気が滅入ったものでしたが、iPhoneの録音はノイズが少ないので、音がきれいに入り、落ち着いて聴けるようになりました。
 仕事でインタビューをするときにも、ついついレコーダーを忘れたり、持って行ってもチャージが切れていて使い物にならなかったりしたものですが、電話なら忘れるということもありません。
 成績会議は、「録音していいですか?」と言ったら、おそらくダメだと言われるでしょうが、なに、iPhoneの良いところは誰にも知られずスイッチを入れて、後はバッグに忍ばせておけばよいことです。私一人の備忘録、ガイジンの私には許されるはず。

 成績会議が行われる教室に入ると、ドアの脇、壁の隅に校長先生が陣取り、それと向い合わせに各教科の先生が弧を描くように座っています。娘のクラスの前にすでにひとつ、他のクラスの成績会議があったので、先生方はそのまま残っていたのです。保護者代表と生徒代表の席はその弧の延長上に先生方に向き合うよう、壁を背にして校長先生側に連なるように設けられていました。

 もう一人の保護者代表、仕事をやりくりして駆けつけた、職業軍人のボワローさんと生徒代表のティボー君の間にはまるように座り、机の上に配布されている資料を見ます。生徒全員の各教科ごとの評点と全教科の平均点の一覧表です。
 こんなものを生徒代表も保護者代表ももらっているのだから、フランスの学校は成績に関してはオープンだなあ、と今更ながらに感心します。
 ムスメなども、今まで、成績会議が終わると生徒代表が電話をくれて、成績表をもらうより前に、自己平均点と先生方の講評を教えてもらっていました。生徒同士お互いの成績も筒抜けで、私の少女時代にあったような成績をめぐる何やら陰湿な雰囲気はありません。
  
 会議はいつともなく始まり、私は抜かりなく、ディクターフォンのスイッチを入れました。

 まずはクラス全体の講評です。担任の先生の代理を務めることになった数学の先生が、総論を述べます。 
 クラス平均点は12 ,68。日本式に100点満点に換算すると大体63点くらい。1学期に較べわずか下がったけれども、第3学級(中学3年相当)5クラス中、最も良い成績。ただし、上位生徒と下位生徒の差が広がった。学期中にフランス語の先生と数学の先生が産休に入り、代理が決まらず授業がなくなった時期が長引いたため、生徒がだれてしまった、などなど。まあ、この辺りはだいたいついていかれます。

 次に、各教科の担当者が個別の講評。おしゃべりが多いとか、特別やる気のない生徒がいて困る、とか、宿題をやって来る子が少なかった、とか、先生の話というのは、そんな感じの生徒批評。

 一通り終わると、保護者代表に質問の順番が来ました。私たちは、「最終学年で大事な時期なのに先生がいなくて学科の勉強が遅れました。生徒たちはすっかりだれてしまっています」「しかも宿題がほとんどないのは驚きです」と、保護者たちから言いつかって来たコメントをしましたが、「宿題がないのは、この年齢ではもう一人で勉強できるという前提になっているからですよ。宿題がなくたって勉強しなくて良いわけではありません」と軽く一蹴されてしまいました。
 後で考えたら、「それでは自分で勉強できる子だけしか救われない。できない子はますます勉強しなくなる。それって、先生の怠慢じゃないの? 宿題の点つけが面倒なんじゃないの?」と正当なる疑問が浮かびましたが、その場で反論できなかったのは返す返すも口惜しいことでした。

 さて次に、生徒ごとの成績です。これもまた、担任が総論を述べ、出席した教師全員が順番に講評して、最後に「マンション」という評価をどうするか話し合うのですが、これが聞きしにまさる速さ。しかもアルファベット順にならんだ名簿のとおりに進まないのです。先に退席したい英語教師(英語は、このクラスはふたつに分かれていて、もう一人の先生は欠席)の担当の生徒を先にしたので、いったい誰の話をしているのやら。だいたい、先生方は生徒たちを名前で呼ぶけれど、こっちの手元の名簿は名字のほうのアルファベット順。問題になっている子を見つけるだけで手間取り、見つけたと思ったらもう次へ。私はすっかりまごまごし、つくづく、ディクターフォンを仕掛けておいて良かったと思いました。

 最終学年は、進学という問題があるので、これも成績会議の大切な議題です。一人一人の進学希望を校長が発表して、それにOKを出すかどうか、教師たちが意見を言います。たとえば、こんな具合。

校長「ルカ、普通高校」
数学教師「えっ、職業高校じゃないの? あの子は菓子職人になりたいって言ってたわよ」
歴史教師「あ、それ、私も聞いた」
スペイン語教師「それ、本人の希望なんですか? 親のじゃないの?」
英語教師「普通科はちょっと難しいんじゃないかしらね」
校長「では職業高校にしますか」

 点数以外の評価になる「マンション」は成績会議の白眉です。マンションの規定は学校ごとに若干異なるようですが、この学校の規則では16点以上は自動的にFélicitation 14点以上16点以下は自動的にbien 。これらがもらえる点がとれなくても、良く頑張ったと褒めて上げたい場合にはcompliment 、点数は良くないけど悪くはなかったよ、ガンバレ、という場合にはencouragementという評価をつけてくれます。
 たとえば我がムスメは評点は13点スレスレ。14点あればbienがもらえるところですが、それはもらえない。というわけで1学期はcomplimentがついたのですが・・・ 

「ちょっとダラけていますね」
「特に良いとこなし」
「じゃ、なにもつけないことにしましょうか」
「はい、マンションなしで」

 マンションの話は、出る子と出ない子があり、先生によって提案もバラバラなので、最後にどう決まったのか、いまいち分からないまま過ぎてしまいます。

 さてこうして、何人もの生徒の講評を聞いているうち、使われるボキャブラリーが限られていることに気がつきました。「すばらしい1学期」「よく勉強しました」「まあまあの出来」「非常に弱い」「波がある」「残念な1学期」などなど。あ〜、たしかに成績表にいつも書かれる言葉の類いです。一瞬で速記できるよう、記号を決めておこう、と思う頃には、しかし成績会議は終わっていました。
 
 家に帰って、まあ明日にでも録音を聴こうと思っていると、娘が「マリオンなんて言われた?」と訊きにきました。そんなこと言われたって、私のメモは曖昧で目も当てられません。「録音したから聴く? ほんとはそんなことしちゃいけないんだけど」
「いいんだよ、ミツは生徒の副代表だもの。ティボーがいなかったら成績会議に行けるんだよ」
と言って、娘はiPhoneを持って行ってしまいました。

しばらくして、
「ママー、ママの録音、消しちゃった。ごめんなさい」
目の前がまっくらになりました。
人目に触れないように、さりげなく録音を終了して帰って来たのでしたが、そのとき保存する一手間をかけなかったのでした。そのまま娘に渡してしまったのが間違い。いったん止めてまた聴こうとして、保存するかというメッセージが出た時、操作を間違ったようです。
どうするの! ママはまだ一度も聞いていないのに・・・

一昨日焼いたフィナンシェ。本文と関係無し。


幸い、レポートは、もう一人の代表、ボワローさんが書いてくださったので、私は、教員や生徒代表の名前の間違っているところを訂正して、「これこれを付け加えたら?」と、二、三の提案をするだけで済みました。

「うちのムスコは15,7 1学期より1ポイントも上がったのに、なんでFélicitationがもらえなかったのでしょうか。がっかりしています。」という親御さんからの問い合わせにも、ボワローさんが「一人の先生からFélicitationを上げようという提案があり、採用されたと思います。私のメモにはそうあります。」といち早く答えてくれました。私はなにも覚えがなかったので、自分のメモを見てみましたが、案の定、なにも書いてありませんでした。

 




2015年3月10日火曜日

高校進学の悩み

 うちのムスメも15歳、9月から高校生になるので、このところ学校選びに頭を悩ませています。
 といってもフランスに高校入試はなし。進学先といっても歩いて通える公立校が2校あるうち、行くことに決まっている学校に行くか、特別願いを出してそうでない方に行くか、という実に狭い選択です。

 えっ、じゃあ高校には全員行けるの? と訊かれれば、実はそうではなく、普通高校に行けるかどうかは、中学の成績で決まります。日本と違って4年ある中学の最後の2学年の成績が対象で、教科ごとに20点満点で評価され、全教科の平均が20点満点中の9点ないし10点(学校により基準が異なるらしい)ないと、容赦なく「普通高校は無理。職業高校にしなさい」とか「職業見習いにしなさい」とか、進路希望届に先立つ面接で言い渡されてしまいます。もちろん、その通りにしないで普通高校に希望を出してもかまわないのですが、その後の通達で、学校からは却下される可能性が高いです。

 「フランスってやだな。15歳で将来が決まっちゃうんだものね」と娘は、いっぱし批判めいたことを言います。女の子のくせに豪傑の彼女は、惨憺たる成績で明るく学校に通っていたのですが、中学2年目で「このままだと職業高校行きになっちゃいますよ」と担任の先生にこんこんと説かれ、一念発起して遅れを取り戻した過去があるのです。目覚めるのがもう一年遅かったら危ういことになったと思っているので、なかなか目覚めない仲間に同情的です。

 職業高校へ行く子は、娘の学校では15%くらいですが、地方の中学校などではもっと多いのが普通です。全国平均では中卒者のおよそ60%が高校進学、40%が職業学校コースに振り分けられます。都市郊外でも移民、低所得層が固まって住んでおり失業率の高い地域の中学では、高校進学者のほうが少数派で40%にしかならないところもあります。私が翻訳した『郊外少年マリク』のなかで、後に麻薬中毒で死んでしまう親友のアブドゥは中学卒業時点で職業学校行きが決まります。主人公のマリクは「すれすれで」高校進学しますが、つまりマリクは9点か10点ぎりぎりをクリアしたわけで、これは郊外の学校では悪い方ではなかったと考えるべきなのでしょう。

 さて、成績が9点ないし10点以上もらえると普通高校への道が開かれるわけですが、ではどこの学校に行くかというと、公立の場合は住んでいる場所で決まっているのです。これが偏差値と受験に馴染んだ日本人の母親には実に妙な具合で、名門校の学区に住んでいると、成績はそれほどでなくても名門校に振り分けられ、たとえば郊外のいわゆる移民、低所得層の多い地域に住んでいると、成績優秀でも非常にランクの低い高校に行かなければなりません。もちろん、それではあんまりだということで、成績が飛び切り良かったりすると、越境して進学校に行かれる道は開かれているのですが、普通の成績の子にはこの特典は認められないと言っても良いでしょう。うちの場合は、ごく普通の成績なのに、歩いていける一番近い高校が、わりと名の知られた進学校。得をしていると言えば言えるケースなのですが、レベルが合わないというのは、それなりにやはり問題があります。

 説明会があるというので娘と二人で出かけました。赤レンガの建物がそれなりの古さを語っている学校です。
「一般の高校入学と我が校への入学は違います」開口一番、まだ貫禄のある伯母さんとまではいかない40代後半くらいのキリキリしたタイプの女性校長は、「バカロレア合格率99%、マンションTB16点以上のこと)22%」と数字を並べ、「本校の目標はバカロレアではありません。高等教育への準備をさせることです」と啖呵を切りました。
 今や高卒資格に過ぎなくなったバカロレア取得ではなく、医学部およびグランゼコール(大学より格上のエリート養成校)準備コースに卒業生を送るのが目標だというのです。
「我が校に付属の中学からでなく隣の中学(これがうちのケース)から来る場合、ついて行けるかとよく訊かれますが、大丈夫です。入学後、1学期の成績を比較して、ほとんど差はみられません。ただし」
と、彼女は強調のため一瞬、口をつぐみました。
「ちゃんと勉強するならです。この学校へ来るみなさんは、今からすぐ、9月ではありません、今日から毎日、最低1時間半は勉強してください。親御さんは、子どもにNONという勇気を持って下さい。ゲームを続けたいと言ってもNON 、遊びに行きたいと言ってもNON NONと言うことをためらってはいけません。」
 帰り道、明らかにげっそりしてしまった娘と並んで、私も悩み始めました。
 ムスメは絵が上手なので、将来は美大のような学校に行ったらいいな、と私は思っているし、本人も進むつもりでいるのです。だからバカロレアは絶対必要ですが、なにも格別、グランゼコール準備クラスや医学部進学を狙う必要はないのです。第一、この学校、美術の授業だってあるかどうか分からない。文系コースが280人中、たった15人しかいないし・・・
 もう少しレベルは低くてもよいから、伸び伸びできる学校のほうがいいな。
 
 翌日、ムスメと私は、もうひとつの高校の学校訪問に出かけて行きました。モダンな建物のこちらの学校は、美術の選択授業もあるし、外国語の授業の一環としてイギリスやアメリカ、ドイツやスペインに研修旅行もあるし、楽しそうです。ムスメも私も、すっかりこっちが良い気持ちになって帰って来ました。
 ところが、進学成績を見ると、こちらの学校は、高校1年に入った生徒のうち、60%しかバカロレア取得まで行かない。なんと全国平均よりもレベルの低い学校だったのです。パリとその近郊、イル・ド・フランスといわれる首都圏は、全体的に地方都市や農村部よりも学業レベルが高いところなのに!
 ちなみに私たちの属するヴェルサイユ教育区の公立校49校中39番。一般に言われる、富裕層の子は成績が良く、貧困層の子は成績が悪い、と言うのを当てはめるなら、この学校の区域は、ヌイイという一般に高所得といわれるこの町のなかでも、とびっきりのお金持ち(フランス一の金持ちといわれるロレアルのリリアン・ベタンクール邸とか、ブイグのマルタン・ブイグ邸などがある)の住んでいる地域が含まれるのに、これはどうしたことでしょう? お金もありすぎると学歴がなくても将来の心配がないので勉強しない子どもが出て来るから、そういうタイプが集まっているのかしら??? 

 そう思うと、わざわざ特別願いを出して行くことはないような気がしてきました。もともと行くことになっている名門校の方は、高1から高2に上がるときに、2割弱が脱落しますが、そこさえクリアしてしまえばバカロレア合格率はほぼ100%なので安心なのです。
 そこで、美術学校受験準備には、それ専門のアトリエに通わせることにして、決まっている方の学校に登録する決意をかためたのです。


 けれど、ムスメは噂を聞きかじってきては、心配になっているようです。勉強が厳しくて鬱になる子が出るとか。同じ中学でも、性格の良いタイプは向こうの学校に行く子が多く、シャララ(金持ちのスノッブな連中をこう言う)と、テストの点数を競い合っているアンテロ(勉強のできる連中をこう言う)ばかりがこっちの学校へ行くのだそうで、気が進まない、とか。それを聞いて、一度は固まった母親の気持ちも揺れているところです。みなさん、どう思われますか?



2015年2月18日水曜日

MEIWAKUとMANKO/世界の起源の鏡

 カナル・プリュスのユーモア・ニュース番組le Petit Journal213日版で、日本のニュースが話題になっていた、と娘がYouTubeで見せてくれた。

 キーワードはMEIWAKU MANKO 

 まずMEIWAKUは、「イスラム国」人質事件で斬首された後藤健二さんの母親が、「ご迷惑をおかけしました」と、政府と世間に謝罪したことを取り上げ、「息子を殺された上になぜ謝らなければならないのか?」というフランス人の素朴な疑問を提示していた。

 子どもだった40年前、小学校の教室で「他人に迷惑をかけないようにしよう」という学級目標で育てられた私には、馴染みがないわけではない言葉だけれど、「MEIWAKU」という社会的圧力は、一歩日本を出れば、どこでも通用するわけではないローカルな概念だということは、知っておいても良いと思うのでここでご紹介しておく。

 もうひとつの MANKOは、いわずとしれた、ろくでなし子さんのマンコ・アート。ろくでなし子さんが、女性器をかたどった作品を理由に起訴された事件は、アートとセックスをこよなく愛するフランス人心に訴えたらしく、昨年から、いち早く報道されていたが、「日本はポルノの溢れている国なのに、なんでこんなものが犯罪になるのか?」というのが、すべての(と言ってよいと思う)フランス人の疑問である。ルポルタージュの中で作品が紹介されたり、警察が問題視して作品をみんな持って行ったと説明されたりすると、そのたびに視聴者参加の会場からは笑いが漏れた。

 ちなみにうちの娘は、「このアーチストの作品は変だけど、かわいいのもあるし、ちょっと面白くもある。日本では子どものポルノみたいなものまであるのに、そっちは良くてこれが悪いというのは全然分からない」とのことでした。

 さて、そんなわけでマンコ・アートのことを思い出したので、この事件に触発されて、昨年、真面目に書いたのだけどボツになってしまった文章を下にコピーしておく。直接には、デボラ・ド・ロベルティというアーチストの『起源の鏡』という作品について書いたもの。

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「世界の起源の鏡」

 アーチストのろくでなし子が起訴されたというニュースは、フランスを代表する新聞『ル・モンド』でいち早く報道された。

 「日本では、ワギナ・アートは通用しない」と始まるこの記事は、淡々と事実関係を報告する中に、「ポルノは溢れているのに、生殖器を見せることは禁じられている国」という記述が外国人記者の疑問を覗かせており、最後は「女性器がわいせつと見られるのは、あまりにも隠されているからであって、実際はただ女性の体の一部であるに過ぎない。男性器の表象はポップ・カルチャーの一部となっている」という、ろくでなし子の主張の引用で結んでいる。

 さて、女性器のエキジビションという点で私は、5月末にパリのオルセー美術館で起こった、女性アーチストによるパフォーマンスを思い出した。

 写実派の画家、ギュスターヴ・クールベの『世界の起源』という作品は、ベッドの上で開脚した女性の下半身がクローズアップで描かれた衝撃的な作品だが、キリスト昇天祭の5月29日、上は金パールのカットソーをまとい、下半身は裸になった、デボラ・ド・ロベルティ(ルクセンブルグ出身、 30歳)は、絵の前に座り両脚を開き、さらに女性器を開いて見せたのである。シューベルトの「アヴェ・マリア」をバックに、「私は起源である。私はすべての女性である。おまえは私を見ていない・・・」というナレーションを流しながら。

 さて、何が起こったと思いますか?

 観客からは喝采も起こった。けれども、彼女の開いた脚の前に立ち、他の観客から見えないように努めた婦人もあり、反応はさまざまだったという。しばらくすると警備員が、観客を部屋から出るように指示し、アーチストは警察の車に連行された。警備員は「子どもの目に暴力的だったと思わないか?」と尋ねたが、アーチストは否定した。起訴されたという話は聞かない。

 デボラ・ド・ロベルティが後に語ったところによると、自分はこの行為によって、クールベによって描かれなかった女性器の中の穴を示した。穴はすなわち目でもある。自分はこうして女性器を見る観客たちを見返す眼となった、つまり女性器に注がれる眼差しを見返す女性の眼の存在を表したのだと言っている。

 金の額縁に擬した金のスパンコールの上衣をまとって、絵の中の女性と同じように開脚し、しかし絵にはない性器の内部を示しながら、女の視線となって女性器を見る者たちを映し出すことが目的だったのだと。

 彼女はこのパフォーマンスを「起源の鏡」と名付けている。

 女性器のエキジビションというだけでマンコ・アートから連想した「起源の鏡」だけれど、この鏡を通して見ると、ろくでなし子の作品に対する日本の権力の目も、女性の視点から見返されて来るような気がする。
 この国で、権力が女性器に注ぐ視線を、私たち女は、女性器を持つ者の側から見返さなければならないのではないか。

 そのことを、アーチストたちは私たちに捨て身で教えてくれようとしているような気がする。