ラベル アクチュアリテ(フランス) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル アクチュアリテ(フランス) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年1月13日火曜日

日本の新聞の「シャルリー・エブド」関係報道に重大な誤訳

連日、シャルリー・エブド襲撃事件関係のニュースが報道されていると思いますが、少々、見過ごすことができない重大な誤訳が散見されるようです。私は日本の新聞をあまり見ないので、どちらもFBでひとに教えてもらったものですが、非常に重大な誤解を生むと思うので、私からもお知らせしようと思います。みなさんもできたら周囲の方に知らせて下さい。(新聞社が自分から訂正すれば一番良いのですが) 

まず、13日の読売新聞の夕刊に出たという、水曜日に出る予定の「シャルリー・エブド」の表紙の漫画に関する記事http://www.yomiuri.co.jp/world/20150113-OYT1T50112.htmlで、問題なのはマホメットがJe suis Charlie(私はシャルリー)の札を持って泣いている絵につけられたコメントの訳です。 

Tout est pardonnéは、この記事に書かれているような「すべては許される」(ムハンマドの風刺も表現の自由)という意味ではなく「すべて赦された」という意味です。もっと日本語っぽく訳すなら「水に流そう」というような。これは「解釈」のレベルの問題ではなく、そもそもpardonnerという動詞に「許可する」という意味はなく、記事にあるような意味であればpermettre という別の動詞を使わなければなりません 。 
「ムハンマドの風刺も表現の自由」という見解は、再び予言者を登場させたこと自体のなかに明らかに示していますが、このフレーズの解釈としては間違っています。
表紙の漫画のコメントは、仲間を殺されたシャルリー・エブドの側から「憎しみの連鎖を生まないように、いろいろあったけれど、赦す」と言う非常に寛容な言葉と解釈されます。 


もうひとつはちょっと前、12日の毎日新聞に出た記事http://mainichi.jp/select/news/20150111k0000m030071000c.html 
の中の、イスラム教徒の活動家が書いたとされているツイート「私はシャルリーではなくアハメド。殺された警官です。シャルリーエブド紙が私の神や文化をばかにしたために私は殺された」。 
これのもとになったツイートは、I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so.(これは英訳ですが、私の見たフランス語も同内容でした)。私が訳すまでもなくお分かりと思いますが、「私はシャルリーではなく殺された警官のアハメドです。シャルリーは私の信仰と文化を馬鹿にし、私はシャルリーがそうする権利を守って死にました」となります。 
このツイートの意味は、「私はシャルリーには共感しないがアーメドには共感する。私はイスラムの冒涜には賛成できないが、シャルリーがそれをやる権利は守ろうと思う」ですよ。 

日本の大新聞の記者は、いつからこんなに語学ができなくなったのでしょうか。
間違いは間違いとして訂正記事を出してもらいたいと思います。

2013年10月17日木曜日

フランスで、また高校生デモ


今日は、フランスの高校生が、不法滞在のコソボ人の15歳の少女とアルメニア人の19歳の少年の国外退去処分に対し、マニュエル・ヴァルス内相に抗議し、フランスへの帰還を求めて、各地でデモをし、パリでは1万人を集めました。

不法滞在といっても、長年フランスで暮らし、学校に通って来た級友。それが警察に捕まって本人には馴染みもない「母国」に返されるのを目の当たりにする例は、多くのフランスの子どもが目にしています。

今回は、左翼政権になったのにサルコジの時代とまったく変わらず、ロマの人々を迫害したり、こうした対移民強硬策をとるヴァルスに対する違和感、失望と怒りが一気にあふれ出たのだと思います。(左翼政権になってから生徒が国外退去になるのは5人目)

それにしても、高校生がデモをするたびに、日本でこういう光景を見ることは絶対にないだろう、フランスの高校生はすごいな、と思います。

「フランスは本来、自由、平等、博愛の国であるはずなのに、この国に適応し、教育を受けている人間を、教育の場に警察が踏み込んで逮捕し、その将来を奪うということが許されますか」
と、インタビューを受けていた高校生が言っていました。

現実のフランスは理想とはかけ離れているけれど、それでも高校生がこんな風にまっすぐ言えることを羨ましく感じました。

また、ヴァルス内相は八方から批判の的になり、政府は内相辞職は考えていないらしいものの、処分された子どもの処遇は考え直すことになりそうで、日本の政府とは違って、デモを無視するようなことはないようです。

ところで最近、フランスは、市町村選挙の投票権を「16歳以上」に引き下げました。こういうデモを見ていると、16歳はとうぜん、政治参加する資格を持っていると思わせますね。

日本でも、選挙年齢を引き下げたらいいという議論がありますが、高校生に選挙権を持たせて、政治参加の責任を促すというのも、もしかしたら良いのかもしれません。

2013年2月12日火曜日

ゲイの結婚合法化

今日、フランスでは同性愛カップルの結婚を合法化する法案が国民議会(下院)で可決されました。

このことは『パリの女は産んでいる』の著者として、どうしてもどこかに書いておかなければならないので、ここに書いておきます。
というのは、2005年に出したこの本のなかで、あまり読者に注目されなかった一章ではあるのですが、「同性愛者と親になる権利」について書いたのです。フランスでは、すでにPACS法というものがあって、ゲイのカップルはカップルとしては結婚とほぼ同じ権利を持っていますから、改めて「結婚」を許可するということのなかで、主に問題になっているのは「子供を持つ権利」なのです。
私は『パリの女・・・』のこの章の最後をこのような節で結びました。

それにしても、ホモのカップルが子どもを持ちたいと思うというのが、ヘテロの私には新鮮だった。どうして? 当たり前じゃないか。愛し合っていれば、ふたりの子供が欲しいんだよ。いっしょに家庭を作りたいんだ、あんたと同じだよ、とホモの人々はいう。そう言われると、それ以上明らかな答えはないような気がしてきて、どうしてホモが子供を欲しがるのが不思議に思えたのか、そっちのほうがわからなくなってくる。
性的指向が違うだけで、そうだなあ、ゲイだって父親になりたいし、レスビアンだって母親になりたいんだなあ、もしもそれができるなら。愛情を持って育てるなら、親がゲイだって何も関係ないじゃないか、と思う。子供を遺棄したり、性的虐待をしたり、暴力を振るったりするヘテロの親もいることを考えると、ヘテロだからよくてホモだから悪いというのは、説得力のない話だ。
でもパパふたり、ママふたりに育てられている子供は、まだとても少ないから、偏見の目にされされることは多いだろう。フランスでは、シングルマザーに偏見の目はもうないが、同棲の両親に対してはそれがある。けれども、偏見はいつかなくなる。数が多くなり、ありふれたことになれば、ひとびとは慣れ、偏見は消えていくのだ。養子が認められたとしたら、それは第一歩だ。
そしてそれは案外すぐかもしれない。2004年の調査で「同性愛者が子供を持つことに反対」が56%と先ほど書いたが、2000年の調べでは70%〔Sofres〕が反対だったのだ。6年前にはパックス法に大反対した保守派の政治家たちが、「ゲイの結婚」論議では「結婚は論外だがパックス法の権利を拡張して対応したらいい」と発言する。世論の変化は意外に早い。
うちの子が大人になるころには……ゲイでも孫が持てるかもしれない。


こう書いた日から8年。8年を「すぐ」と言うか言わないか分かりませんが、まあ、私の感覚ではわりと「すぐ」に、実現化したわけです。

今、この章を読み返して、自分で言うのもなんですが、なかなか良く書けていると思いました。同性愛者が子供を持つ方法には、養子と生殖医療があり、同性カップルの生殖医療はフランスでは禁止、養子は同性カップルには禁止、片方が独身者として申請する権利はあるが、同性カップルであることが分かるとほぼ完全に可能性がない、などの事情が分かりやすく説明してあります。そして、私としては、養子に関しては留保なく権利を認めることに賛成、生殖医療には抵抗があるけれども、としています。

私のスタンスは8年前からまったく変わりません。同性愛者が子供を持つ権利には賛成。ただ、子供が偏見に晒されて育つのはかわいそうに思うので、反対派のデモがあまりにも人を集めたときには、これはもう少し期が熟するのを待ったほうが良いのではないか、と思いました。けれど、人々の意識が変わったから法律を変えられるのか、法律が変わったことが人々の意識を変えるのか、その時点の見極めは、多数派と少数派が入れ替わる非常に微妙なところで、今はもしかしたら、合法化することが、保守派の意識を変えていくのかもしれません。

さて、もうひとつ、私の変わらないスタンスは、生殖医療に対する違和感です。
今回の法案には、同性カップル(特に女性)が体外受精に訴えることも許可する内容が盛り込まれていましたが、途中でこれを取り下げ、生殖医療については、今後、論議する、家族法の改正で補うことになりました。この議論はまもなく開始されるようです。

フランスでは、結婚したカップルには、精子や卵子を他人から提供してもらう体外受精が許されているのです。そうなると、ゲイのカップルも今後は、生殖医療によって子供を持つことが可能になるのを認めなければいけないというのは筋は通っています。養子を認めるならば、ということはつまり血のつながりは決定的に大事なことではないと考えるわけですから、配偶子を他人に頼った生殖医療による子供を持つことにも別に問題はないわけです。子どものできない男女カップルが配偶子を他人に頼って子供を持つことが許される以上、ゲイのカップルにそれを禁ずる理由も見当たりません。
論理的にはそうなのですが、ここに来て、私は初めて、自分のなかになにか抵抗を感じるのです。
自然にしていたら決して子供ができるはずのない同性カップルが、生殖医療によって子供を持っても良いものだろうか、と。なにかそれは人間の傲慢ではないのだろうか、と。

今回の「ゲイの結婚合法化」論議の途中で、クリスチアーヌ・トビラ司法相が、代理母によって外国で出産された子供にフランス国籍を認めるという通達を出していたことを保守派がとりあげ、「ゲイの結婚合法化は代理母出産を奨励することになる」と告発しました。
フランスは代理母による出産を禁じていますが、法の網をくぐって外国で代理母に子供を産んでもらって子どもを得たカップルが数十組存在しています。その子どもたちにフランス国籍が与えられていない現状は、不便で理不尽なものであり、それを是正するために出された通達です。本来、ゲイの結婚と直接にはなんの関係もないのですが、「代理母で産んでも認められる道をつけてしまえば禁止の意味がなくなるので、ゲイ・カップルが代理母に訴えるのを奨励している」と保守派は言うわけです。法相は、「現に存在してしまっている子供たちの不便を解消するのだけが目的で、代理母出産を認めるわけではない」と抗弁しており、もちろん、その通りなのだろうとは思いますが、ゲイの結婚と子供を持つ権利を認めるのであれば、代理母出産の子供に便宜を図るのはある意味、論理が一貫していると思います。与党が用意している家族法の改正案では、女性のゲイ・カップルの体外受精による出産のみを対象にしていて、相変わらず「代理母はダメ」というスタンスのようですが、代理母を認めないと、男性のゲイ・カップルと女性のゲイ・カップルの間に不平等が起こってきてしまうからです。平等の論理をつきつめるなら、代理母もいずれ認めなければならなくなるのではないかと思います。ですから、保守派の言うことにも一理あるのです。

まあ、そういうわけでたいへんにややこしい。代理母はダメというフランスですが、男女カップルの場合、代理母に訴えるカップルにも言い分はあるのです。彼らは精子は夫ので、卵子は妻のもので子供ができるのです。たった9ヶ月、他人のお腹を借りるだけなのです。他人の精子や卵子をもらって子供を持てるカップルがあるのに、どうして自分たちはダメなのだろう、と思うでしょう。

私のなかの非常に保守的な部分は、命を操る技術を人間が自由に使うことに抵抗を感じます。人間はどこかで、諦めを知るべきなのではないか。どこかで生殖医療に歯止めをかけなければいけないような気がするのですが、わずかな医療で赤ちゃんが持てるなら、と思う人の気持ちは分かる。だから、その一線をどこで引くことができるのかが、よく分からないのです。

ちなみに世論調査によれば、現在、フランス人の65%が同性愛カップルの生殖医療に反対だそうです。

2013年1月30日水曜日

ただいま戦争中

ご存知のとおり、フランスは今、戦争中です。
マリ共和国北部を支配するイスラム原理主義の武装勢力が南下してきたため、マリのトラオレ暫定大統領に頼まれてフランスのオランド大統領が仏軍を援軍に出したのが、もう2週間以上前のこと。この数日は、ガオ、トンブクトゥ、キダルと大きな町を次々、奪還したというニュースがフランスのメディアを賑わせています。

ニュースを見ていると、子どもが「フランス軍が来てくれたからもう大丈夫」と言ったり、煙草を手に持ってカメラにアピールする青年(イスラム法の厳格な適用が煙草を禁じていたから)が映ったり、フランスはずいぶんマリの人々に感謝されているらしいです。

そんなに喜ばれているんなら、良いことだよね、と思わないわけではないのですが、戦争というとアレルギーのある日本人の私は、それにしても戦争というのはずいぶん簡単に始まってしまうものだな、という感慨から抜けられません。

オランド大統領が派兵を決めたときは、普段は対立している野党の党首らが次々に国会の壇上に上がって「大統領の決断を支持します」と演説をぶっていたし、国民の大半は賛成で、オランド大統領の支持率は上がっているというし…

戦争といったって、フランスから遠いところに職業軍人が行っているだけですから、国内の日常は別に変わりません。テロがあるかもしれない、と少し警戒度を高めて、私も娘を一人でメトロに乗せないようにしている、というくらい。アフガニスタンのように兵士の中に死傷者が出始めると世間の反応も変わるのでしょうが…

日中戦争をしていた頃の日本も、こんな風だったんだろうな、と思いました。徴兵制があったことだけは違ったけれど。

勝っているという報告と、現地の人にこんなに歓迎されています、というニュース…

しかし、フランスがイスラム武装派を排除したいのは、かわいそうなマリの人たちを助けにフランスが行ってあげました、という話というよりは、友好国マリがイスラム原理主義勢力の支配下に下ってしまっては、フランスの原発のためのウラン鉱がある隣のニジェールが危なくなるから、という事情のほうではないか、と思ってしまいます。

さて、今日のニュースでは、マリ軍を助けるだけでできるだけ早く撤退する、という当初の方針をちょいと変更して、フランス軍はこれからも北上するそうです。理由は、マリ軍にはそれだけの備えがないから。

でも、もともとマリの南部と北部では、居住している民族や宗教なども違うので、今までと同じようには考えられないのではないのかな。

こうして戦争をしている国に住んでいると、いろんなことを考えてしまいます。日本が戦争すると言ったら、とんでもないことだと思うのに、フランスが「国際紛争を解決する手段として*」派兵を行ったら、「マリの人たちを助けていいことね」と思うというのは、なにか矛盾しているように思うからです。多くのことが分からないまま、日常生活が流れていきます。



*追記 「国際紛争を解決する手段として」と、日本国憲法第九条を思い出して書きましたが、マリはもとは北部が独立宣言したけれど国際的には認められず、北部と南部の内戦のようなものだから、そうなるとフランスの派兵は「国際紛争」というよりむしろ「内政干渉」ではないか、とも思えます…
何にしても、良いばかり、悪いばかりということはないのでしょうが、北部の主要都市を「奪還」してマリ国民にも歓迎されているあたりで、フランスは手を引いたほうがよいのではないかな、と思います。

2012年10月6日土曜日

70年目の記念碑


 
「カメラ、持ってきてくれた?」出会いがしらに夫に訊かれました。

そうそう、頼まれていたんだった。ところが、いつもハンドバッグにデジカメをしのばせている私が、バッグを変えたために忘れていました…

 それでカメラ代わりに目に焼き付けてきた(つもり)なのがこれです。

Arrêtés par la police du gouvernement du Vichy, complice de l’occupant allemand du nazi, 11400 enfants ont été déportés de France de 1942-1944 et assassinés dans les camps d’extermination pour nés juifs.
 
(占領軍ナチスドイツの共犯者、ヴィシー政府の警察により逮捕され、11400人の子どもが、ユダヤ人として生れたという理由で、1942年から1944年の間に、フランスから強制移送され、絶滅収容所で殺された。)

 この後に、「そのうちリセ・シャプタルの生徒は以下の通り」として5名の名前が記され、
最後に「決して忘れるな」

 リセ・シャプタルというのは、パリ8区にある公立高校で、うちの亭主の母校。彼は物好きにも同窓会長をやっているので、このプレートをホールに設置する式典で一言話すことになっていたのです。

 今年はRafle du Vélodrome d’Hiverから70年目に当たります。
Rafleは、辞書を引くと「一斉検挙」とか「手入れ」とか出ていますが、これではなんとなく陰謀でも企てている地下組織かヤクザが引っ立てられたみたいです。
対独協力政府ヴィシーの警察が、ユダヤ人宅に押し入って、女性、子ども、老人も含めて手当たり次第、捕まえて、とりあえず冬季自転車競技場に収容した事件のことですから、「人攫い」とか「人身捕獲」と言ったほうが近いような気がします。
逮捕者13000人、うち子ども4000人。捕まえられた人々は、ドランシー収容所を経由して最後はアウシュヴィッツに送りになり、このとき送られた子どもは一人も生還しませんでした。

この事件を忘れないようにと、今、フランスでは各地で展覧会などが行われています。パリでは市庁舎で C'étaient des enfantsという展覧会を、3区の区役所で、Rafle du Vélodrome d’Hiver, les archives de la policeという展覧会をやっています。こんな流れのなかで、夫の母校もプレートを設置することになったようです。
知らない人ばかりのところに「妻」という資格で出かけるのは苦手な私ですが、今回は行ってよかったと思いました。
何人もの人が「数年前だったらこんなことはできなかった」とスピーチで語るのを興味深く聴きました。「占領軍ナチスドイツの共犯者であるヴィシー政府の警察」と、こういう文句を刻み付けることは、わずか数年前まで、できないことだったのだと。
対独協力政権のことは、実際、誰でも知っていて、私が留学生としてフランスに来たばかりだった1988年でも、フランス人学生が「レジスタンス、レジスタンスって言うけど、長い間、レジスタンスは少数派だった。最初はみんなヴィシーに協力してたくせにさ」などと言っていたものです。この大量逮捕のことだって、パリの人間は誰でも知っていること。だから私は「数年前には」という言葉に驚いたのでした。
でも、「知っている」のと、碑に刻んで残すというのは、違うことかもしれません。数年前ではまだ、関係者の間で、そういう方向では意見がまとまらなかったのだ、ということなのでしょう。

2010年に、その名もLa Rafleという映画が、この事件を描いて、大きく話題になりました。70年を経て、フランス人たちは、ようやく自分たちの汚点を公に認めることができるようになったということでしょうか。あるいは、声高に言わなくても暗黙のうちに「誰でも知ってる」事実であったことが、それを体験した人が消えていくなかで、「ちゃんと言っておかないと若い人に伝わらない」歴史に、変質したということなのかもしれません。
プレートに記された名前のうち二つに、アステリスクがついていました。終戦の4週間前に移送された兄弟二人が生き残ったのだそうです。
その弟のほうだというお爺さんが、壇上に上がって話をしました。声を詰まらせて、ときどき沈黙しながら。
「兄と私は戻って来ましたが、もう何もなかった。親も親戚もなく、家も持ち物も何も」
私にとっても、後ろに並んでいた高校生たちにとっても、生き証人を目の当たりにすることは、貴重な経験だと思いました。

そして「ネガシオニスト(否定論者)に気をつけよう、反ユダヤ主義、人種差別、そしてあらゆる差別を許さないよう気をつけよう。」と、次々にスピーチをする人たちが繰り返すのを見て、日本の高校では、大人は若い人にどんな記憶を継承させようとしているのだろう、と思いました。