2017年4月3日月曜日

『騎士団長殺し』の感想


『騎士団長殺し』を読み終わった。(ネタバレあり。ただし読んでも小説の筋は分からないと思う。)

怠惰な読者である私が、つっかえもせず、短期間に読み通したのだから、さすが村上春樹だと思う。読者を飽きさせず、読ませるのは、さすがプロの小説家の面目躍如だ。

それは本当にそうなのだけど、それは認めた上で言うことなのだけど、
正直言って、がっかりした。

村上春樹らしいモチーフが盛りだくさんの、村上春樹らしい小説だと皆が言うし、それはそうなのだろうと思う。けれど、かつて村上春樹をワクワクして読んだ私には、そこにあった魅力が、大事なものがなくなっていると感じられた。

昔の作品とよく似ているけれど、出がらしになってしまったみたいな。すべてが色あせ、干涸びているみたいな。

かつての作品にあって、ここにないものはなんだろうと、しばらく考えていて、そのひとつはリリシズムだと思い当たった。かつての作品に濃厚に漂っていた、なにか大事なものを失くしたという痛切さと、それを表現する叙情的な文章。村上春樹が愛読したというThe Great Gatzby の最後に通じるような・・・ 感傷的な文体。

その文体の感傷性は「僕」という一人称に通じていたものだとも言える。日本語の一人称というのは、なんて微妙なのだろう。清水邦夫の戯曲に『ぼくらは生まれ変わった木の葉のように』というのがあって、これはアレン・ギンズバーグの詩の引用だそうだけれど、演劇少女の高校生だった私はこのタイトルだけで、ずいぶんカッコイイなというか心を動かされたものだ。しかしこれが「私たちは生まれ変わった木の葉のように」だったら、ことは全然違っただろう。「それで何をするんですか?」と冷静に問いたくなってしまうに違いない。

『騎士団長殺し』は、「僕」ではなく「私」で書かれている。文章が読者の感情に訴えにくいのは、それも理由のひとつなのだろう。「僕」という一人称が導く叙情的な文体が繰り出す喪失感は「青春との決別」「若さの死」に結びつくもので、誰でも経験するだけに万人の共感を誘うけれども、歳をとった作家がいつまでも書き続けられるものでも、書き続けるべきものでもなかったのだと思う。

だから、それがなくなっているのは、ある意味当然なのだが、ここでなくなっているのはそれだけではない。登場人物のインパクトやエピソードやモチーフのつながりが弱くなっているように感じる。『騎士団長殺し』という絵を描いた画家、雨田具彦が若き日にウィーンで関わったというナチ将校暗殺未遂事件も、その弟が巻き込まれた南京大虐殺も、物語の本筋と何も絡まないし、冒頭に思わせぶりに出てくる「顔なし」も、後で出てくるときに大した活躍もしない。最初に展開される『騎士団長殺し』の物語は、イデアだという「騎士団長」という奇妙な登場人物を出現させる以外に主立った役目を果たさない。伏線はまったく回収されないので、あれこれ考えるのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。

失踪したまりえを取り戻すために、警察の捜索などでなく主人公の超自然的な冒険が必要だというなら、まりえも少なくとも超自然的な失踪をしているのだろうと思うと、ただただ免色邸に隠れていたという。主人公の冒険とまりえの運命をつないでいるものは、クローゼットの中に隠れることが母胎回帰の隠喩であることと、その扉の前に誰だか分からない人物が立っていたが扉を開けずに去るという超自然的な危機回避だけだ。それではなんだか白けてしまう。

騎士団長の人工的に作り出された「あらない」とかいう変な話し方も、やたらと詳しい車の種類への言及も、魅力的というより、ただただ苛立たしかった。羊男はあんなにかわいらしく、中田さんの話し方は愛すべきで、村上春樹のディテールへのこだわりは小気味良くオシャレだったのに。

今度の作品にも、失われたものとそれを探すという構図は残っている。妻に去られた男がいて、その男は子どもの頃に最愛の妹を亡くしている。けれど、それはただ説明のようにあるだけで、私には必然性が感じられない。本当にはなにが失われているというのだろう? 失踪したまりえがたかだかクローゼットに隠れているのと同じように、「探している」ことにも切実さがない。騎士団長を殺して産道のような場所にもぐりこみ、赤ん坊の誕生を模倣して出てくるのは、図式的には死と再生のイメージなのだろうけれど、主人公は生まれ変わらない。画家自体は元の鞘に収まるだけで変化しないのだ。見つけるべきものは「子ども」という形で与えられる恩寵なんだろうか。なんだかとってつけたようで説得力が感じられない。

私がここに感じるのは、失われたものを求める欠落感ではなく、喪失感さえも失った干涸びた感性だ。形骸化した物語の装置と小道具だ。初期の作品群には、「失われた」と書くことによって、「あったもの」が逆説的に感じられるようなみずみずしさがある。中期の作品群には、失われた何かとの間にはもっと知的な距離が感じられるが、なんとかして近づこうとするあの手この手が物語に血を通わせている。しかし喪失したという感覚すら喪失したとき、残るのは、あの手この手ばかりになった。もしかしたら「失われたもの」との新たな絆が「子ども」なのかもしれないが、それは免色がまりえとのDNA鑑定を求めず、「親子かもしれない」という曖昧さに意識的に留まっていようとすることによってのみ、主人公が「夢での性交」でのみ得ることができるものだ。としたら、それは妄想の儚い絆でしかない。それが『騎士団長殺し』、のような気がする。

技術は申し分ない。手堅くまとまってはいる。かもしれないが、これでは、元の鞘に収まった主人公が描く、上手な肖像画のようだ。
いや、本当に描くべきものは、別にあるのじゃないだろうか。
可能性をちらつかせながらスルーされてしまっているもの。
それが何なのか、分かるのは作家本人だけだろうけれど、村上春樹にはこんな自己模倣ではなく、「白いスバルフォレスターの男」や「顔なし」の肖像画にあたるものを思い切って描いてもらいたいと私は思う。

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