2014年10月4日土曜日

フランスの保護者会

 20年フランスに住んでいても、フランスって違うなと、つくづく思うことがある。

 木曜日、子どもの中学に保護者会に行ったら、12月までで産休に入る数学の先生の代理が未だ決まらないという。娘たちのクラスは中学最終学年なので、年度末に中卒免状試験を控えているのに、と教室はざわつく。
「だから、大事なところは全部12月までに終えられるよう、私は努力しているんです。スピードがちょっと早いかもしれません」と先生。
「困りますよ。試験のある6月までに忘れちゃいますよ」親たちは頭を抱える。

 フランスのシステムというのは融通が利かなくて、校内の先生で不在の先生のクラスをちょこっと負担する、というわけにいかない。労働法をきちんと守るので契約にない仕事をさせられないから、教育委員会が代理を任命しないことには、隣のクラスの数学の先生は自分の受け持ちしか教えてくれず、教師不在のまま数ヶ月が過ぎたりする。代理を務める先生は、教育委員会の用意したリストに予め登録していなければならない。国民教育省は、代理教員を用意するコストを削るものだから、いざというときに人が足りないのだそうだ。これはフランスで公立校が嫌われる一番大きな理由でもある。

 それでも、突発的な病欠とちがって産休はずいぶん前から分かっているから、今から来年1月までには代理が見つかるだろうと思っていたのは、どうも私くらいのものだったらしい。
「教育委員会に全員の連名で手紙を書く」
「校長から言ってもらう」
「校長はなにもできないでしょう」
「でも両方やったほうがいいですよ」
「引退したS先生に戻ってもらったら?」
S先生が教育委員会の求人に応じないと」
と次々に発言が飛び出す。
 まだ保護者代表も選出していないのに、親分格のお父さんが、担当科目を説明しに来た英語教員を扉のところに立たせたまま、黒板に大きく自分の電話番号を書き、
「月曜日の夜に電話してください。それまでに校長に会って来ますから」と告げた。
 外に出たあとも紛糾はおさまらず、「月曜の夜に電話。火曜の朝8時に校門の前に集まり、みんなで校長を問いただすと同時に教育委員会宛の手紙にサインする」と決定。

 こういう、抗議するときのまとまりの早いこと。そして誰も、産休に出る先生のことを悪く言わない。悪口を言われたのは、12月でいなくなることが分かっている教師を最終学年に割り当てた校長だけだった。

 それにしても、産休教員の代理が見つからないなんていう不手際もフランスらしいかもしれない。
 フランスで革命が起こるのは、システムが硬直しているため、ぶち壊さないとならないからで、その点、イギリスはもっと柔軟なので暴力的な革命が起きなかったのだと聞いたことがあるが、産休代理をめぐるシステムの融通の効かなさと保護者たちの抗議のオーガナイズの良さは、なにかそれを思い出させた。

 もう一つ、槍玉に上がったのは給食。今年、予算の都合かなにか、業者が変わって質が落ちたらしい。食器洗い機も故障したままなので使い捨ての紙皿、紙コップなのも評判が悪い。うちの子たちもずいぶんぶうぶう言っていたが、どこの家庭でもそうらしく、お父さんお母さんたちが口々に「給食のまずいの、なんとかならないんですか」と言う。
「食べてないっていうじゃありませんか。給食費、払いませんよ」
「給食の業者を変えないなら、うちも給食費は払いません」
「そうだ、そうだ、ボイコットだ」
 翌日、娘が帰って来て言うには、
「どこのうちも給食費払わないんだって。うちも節約したいなら払わなくていいと思うよ」。



2014年9月7日日曜日

新学期の顔ぶれ

また新学期がやって来ました。
さぼりまくったブログも再開の時。
母親業をしていると、バカンス中ほど忙しいものはなく、
子どもたちが学校に(そして夫が仕事に)行ってくれると、はじめて息がつけるのです。
と言い訳はそこまでにして、本題に。

 今年は学校の初日を待たずして、息子には次々に友だちの転校のニュースが舞い込みました。
ジャン君は私立のサン・ピエール=サン・ジャンに。ラファエル君は引っ越して、同じ公立とはいえ学区の違うパストゥールへ。ルイ君は寄宿舎のある学校に。

仲良しが三人も一挙にいなくなると知った息子の目には涙が。

この子は、友だちと一緒にいたくて、私の勧めた、日本語の勉強できるラ・フォンテーヌ校に絶対に行かないと頑張った子なので、なんとも不憫。
うちの子たちの通う公立中学アンドレ・モーロワは、このあたりでは一番、評判の悪い公立校です。とはいっても、荒れている地域ではないので、学習に障碍が起こるようなことはないのですが、
公立校というのは、先生が休んでしまった場合に、代わりがなかなか来ないという問題があって、これはたしかに困ります。

というのは、公立校は先生の不在が2週間以上でないと、代わりを探せないという決まりがあるのだそうで、最初から2週間と分かっていればいいけれど、そうでないとダラダラいつまでも代わりが決まらないのです。
そんなわけで、去年も1ヶ月も先生が不在で、なかなかフランス語の授業が始まらなかったりということがあり、頭に来たジャン君のお母さんは、子どもを私立に移したようです。

ルイ君が寄宿学校に行ってしまったのは驚きでした。寄宿舎というのは、成績が悪かったり、素行が悪かったりする子どもの救済所というような感じで機能している面がありますが、息子の友だちのルイ君はそんなことはなかった模様。なにか家庭の事情があるようです。また、寄宿学校には、自分から行きたいと言い出す子どももいますが、彼は行きたくなかったのに可哀相だと息子が言っていました。
ラファエル君の行った公立校は、同じヌイイの中でも公立としては一番のエリート校。越境してでも行かせたがる親御さんもあるくらいですから、ラファエル君はせっかく引っ越したのだし、この機会に転校してしまった、というわけです。

そんなわけで可哀相な息子でしたが、新学期初日には満面に笑みをたたえて帰ってきました。
― マテオと同じクラス。先生もいい。

案の定、かなりの生徒が流出したらしくクラス数がひとつ減りました。名簿には名前のあるアドリアン君も欠席。学年トップで表彰されたアドリアン君、近所の名門私立校に転校したようです。
クラス数が減った分、一クラスの人数は増えて、親友の一人マテオ君が入って来た。女の子の数も増えたそう。去年は、クラスに女の子が5人しかおらず、特別、彼の関心を惹く子がいなかったので、ちょっと期待を込めて、
― かわいい女の子いた?
と訊くと、
― いない。でも、ぜんぜん、かまわない。

女の子といえば、去年のクラスの成績優秀者3人がそのまま残ったので、今年も彼の女性関係は成績争いになるらしい。マテオ君が
― おれも競争に加われるかもね。
と、男性軍の援護に入り、やれやれ、今年もあまり浮いた話のない一年になりそうです。

 

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お姉ちゃんの方は、どんなクラスに入れられるかが心配でした。
去年は、うるさくて子どもっぽくてお馬鹿さんの多いクラスに入れられて、一年中、ご不満だった娘。それもこれもドイツ語やラテン語やヨーロッパ・クラスや科学クラスのような選択授業をひとつも取らなかったためだと考えた娘は、とくべつ勉強したいわけでもないギリシャ語を選択希望して、なんとか不運から逃れようとしていました。

というのは、フランスの中学は、メインの教科のほかに、随意の選択授業があって、やりたい子どもは色々なものが学べ、やりたくない子は基礎教科だけにすることができるのです。そんなわけで、我が家でも、余力のある息子は第六学級(中学の1年目)からドイツ語をやり、第五学級(2年目)でラテン語を入れ、来年の第四学級では、週1で英語で歴史かなにかの授業をするヨーロッパ・クラスを選択させるつもりなのですが、勉強が苦手だった娘には、日本語を外でやっていることだし、過剰な負担はさせない方針で、選択授業を取っていなかったのです。
そうすると、時間割の調整から不可避的に、選択授業を取る子どもが固まってしまうので、とらない子も固められてしまう。すると、勉強のできる子、できない子でクラスを分けたような形になってしまうのは、少々、仕方のないことなわけです。

ところが娘は、自分はさておき、どういうわけか友だちといえばドイツ語、ラテン語選択者、ヨーロピアン・クラス、科学クラスの子ばっかり。でも、いまさらラテン語クラスには入れないので、ギリシャ語をどうしてもやる、と言う。
ところが、フランス語と馴染みが深く、アルファベットを使うラテン語ならともかく、文字から学ばなくてはならないギリシャ語を、中学最終学年で始めようという生徒は数少なく、ギリシャ語クラスは成立しないという噂が流れ・・・

― 悪い予感がする。
と、お姉ちゃんが帰ってくる前、弟が言いました。

そのとき、ドアが開いて
― シャルルとジュリエットと同じクラス! ジュリアもリザもいる! 夢みたい!
絵の上手い子、みんな同じクラス。競争になるかも。

と、大喜びで帰って来ました。(どの子もこの子も、競争って、意外に楽しいのかな?)

ともかくこれで一安心です。

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お姉ちゃんの方は余談があります。中学最終学年では、うちの学校には転校生がむしろたくさん入って来るようです。ストラスブールから引っ越してきた子というのもいますが、近所の公立名門校パストゥールから何人も来るのです。

フランスの学校は高校も基本的に学区制なので、モーロワの卒業生は三分の二が高校からパストゥールに行きます。だから、今年モーロワに来ても、来年はパストゥールに戻るのに、なんで来るのか???
そこでピンと来ました。
パストゥールが中学のランク付けを良くするため?

このランク付けは、中学卒業時の中卒免状試験の成績で決まります。中卒免状は、だいたい誰でももらえるのですが、それでも90%合格か、85%合格か、というようなところで差がつけられます。また、合格者のなかに、どれだけ「mentionつき」、つまり高得点合格者の割合が多いかも中学の評価につながるようです。Mentionは、12点から14点未満がassez bien14点以上16点未満が bien16点以上が tres bienで、これも半数以上の生徒がもらえるのですが、学校によって、90%から60%と開きが出るわけです。
うちの子たちの学校は65%から70%くらいですが、パストゥールは80%台。

だいたい、考えてみれば住んでいる場所によって中学校が決められるのに、同じ町の中でそんなに大きな差が出るわけがないのです。成績のいまいちふるわない生徒を最終学年でモーロワに出してしまうことによって、パストゥールのパーセンテージが維持されている…
のかなあ、と思いました。

2014年3月22日土曜日

『私の欲しいものリスト』とブラスリー「モラール」

ちょっと前、2月初めのことですが、去年の夏前からやっていた仕事が本になりました。

 
グレゴワール・ドラクールのベストセラー小説、La Liste de mes envies の翻訳、『私の欲しいものリスト』(早川書房)です。宝くじに当たった40代後半の女性が主人公。180万ユーロ〈2億5千万円くらい〉当たったら、自分ならどうするか、考えながら読むのも面白いと思います。まだ新刊で出ているので、本屋さんで見てみてください。

さて、そのヒロインが、お金があったら、亡くなったお母さんに何がしてあげたいかと考えながら、連れて行きたいと思ったパリの「牡蠣で有名な」ブラスリー、「モラール」。ひょんなことから、その店に昨日、行きました。
 

先週、私の音楽の先生が「これ、行かれないから」と差し出したコンサートの招待状。ちょうど誕生日で、夫の事務所のすぐそばにあるブルガリア文化センターなのでありがたくいただいて来ました。ひどくお手軽なお出かけになりましたが、ベートーヴェンのソナタ27番とシューベルトのソナタD960を聴いた後、「この近くならあそこかな」と夫が連れていってくれたのが、耳に覚えのあるお店だったのです。

牡蠣はきれいな緑色をしていてとても繊細なお味。牡蠣の好きだった父を思い出しながらいただきました。

 




クリスマスに家で食べたのよりも大きなオマール、カナダから来たそう。



デザートはシュークリーム。これもお父さんの好物だったなあ・・・ 小ぶりとはいえ、4つはさすがに無理。2つでお腹いっぱいになりましたが、美味しいので3つまで食べて降参。昼にプールに行って運動した分がチャラに。




前にも連れて来たことがあると夫は言うのですが、私はまったく覚えていません。『私の欲しいものリスト』に出て来たことですっかり嬉しくなった今回はしっかり記憶に刻みました。
アールヌーヴォーの内装も有名だそうです。
 
 
 

2014年3月11日火曜日

飛行機が飛ばなかった夜


 32日の夜10時ごろ、東京から昼の便でパリへ戻るはずだった私は、乗った飛行機が整備不良で、何時間も座っていた挙句に降りる羽目になり、送り込まれた日航ホテル成田の中華レストランで定食を食べていた。

 テーブルには娘と息子のほかに一人、穏やかな笑顔の女性がいた。いったんは預け入れたスーツケースをまたずるずると引き取って、ホテル行きのバスを待っているとき、「よかったらこれ、いかがですか、お子さんたちに」と、おにぎりを分けてくれた優しい人だ。「子どもに持って帰るつもりで買ったんですけど、明日になると食べられないから」。彼女はそう言ったけれど、それがたった今、わたしたちのために買って来てくれたおにぎりであろうことは私には分かった。機内で混乱していたとき、家族に電話したいという彼女に携帯電話を貸してあげたので、お礼のつもりだったのだろう。搭乗前に空港のレストランで食事をしてから、もう8時間は経っていた。私はありがたくいただいた。

 そんな縁で、もう今にも閉まりそうなレストランで、夕食をごいっしょしていたのだった。うちのよりも年上の子どもを三人、ドイツで育てたという女性だった。子どもの日本語や学校のことで話ははずんだが、そのうちに、ちょうど今回の日本滞在中に起こった、東京の図書館でのアンネ・フランク関係の本のページが切られる事件が話題になった。

― 私はどうも、あれは最近の日本の右傾化を快く思わない人たちが、警告のためにやっているんじゃないかと思うんです。

 私は一瞬、なんのことやら分からなかった。

― それはまたどうして?

― 3年前の震災以来、日本は右傾化していますでしょ。私自身、自分が右傾化したなと思うんです。日本人がほんとに辛い目にあって、がんばっている。それでもう、昔のようではいられなくなりました。

― というと?

― ほら、昔はね、学校でも教えられたし、日本は中国や韓国の人に悪いことをしたって。そう思ってましたでしょ。そういうふうに簡単に思えなくなりました。私たちだって必死なんです。でも、そういう傾向に反感を持つ人たちが、外国に知らせようとしてやっているんじゃないでしょうか。

― ???

― 慰安婦問題をナチスと同じのように言うでしょう? でも、慰安婦問題はナチスとは違うんですよ。

― それはまあ、違うでしょうね。

― でも同じだって言う人たちは、慰安婦問題のことで日本をナチスと同一視して。

― けれど、アンネの日記を切り刻むのは、外国人に対して排外的なナショナリストがやっている、と考えることもできるのでは?

と、私は言ったけれども、確信はなかったし、その話題はそこで切り上げた。

 彼女の話は私に深い印象を残した。

 論理的には間違っている、なんだか滅茶苦茶なような気がしたけれど、なにか私の知らない真実を明かしているような気がしたのだ。

 ひとは誰でも気の合う、話の通じやすい相手を自然と選んで友だちにするので、ふと気がつくと自分と感じ方、考え方の似た人間ばかりに取り囲まれている。不思議なことに、20年、30年も音信不通だった友だちでも、再会するとやはり話は通じやすく、まったく意見交換していなかったのに、昨日別れたばかりのように共感できたりする。そんなことにばかり出会っていると、自分とまったく感受性や思考パターンの違う人間がいることを忘れてしまう。ひょっとすると、自分たちのほうが、少数派であるのかもしれないのに。
 飛行機が欠航になって成田のホテルで一夜を明かすような機会でもなければ、こんな話を聞けることはまずないのだ。

  9・11がアメリカ人の間にナショナリストな感情を惹き起こしたように、3・11は日本人をナショナリズムに向かわせたのかもしれない。そう、私だって、あの日、津波にさらわれた同国人、個人的には誰一人知人のない同国人のために涙を流した日以来、原子力災害を抱えた母国を見つめて以来、私の出身国のことを、以前より余程考えるようになった。自分を日本人だと思い、住んではいない私の国のことを深く心配するようになった。あの日、私にとって、世界は変わってしまった。

 私はナショナリストになったわけではないが、同じような母国への絆によって、ナショナリズムの方に引き寄せられた人たちが沢山いるのかもしれない。それはどこかでなにかが間違って繋がってしまったのではないかと、私には思えるのだけれど、それはそれでよくあるパターンなのかもしれない。

 数日後だったか、斎藤美奈子がコラムで「自虐は余裕のあらわれである」というようなことを書いていた。なるほど。「自虐史観」は余裕の表れであったのか、と思った。「自虐」ではなく「自己批判」だと私は思うけれども、それは措く。長く不況に襲われた末に地震・津波という最大規模の自然災害と原発苛酷事故という未曾有の人的災害に見舞われた日本は、自分を批判的に見つめる余裕を失ったということなのだろうか。

 そういう面はあるのかもしれない・・・ 

 私はそんなことを私に考えさせてくれた彼女のことを思いだす。彼女はほんとうに優しい良い人だった。私たちに遠慮させないようにと、「明日になったら食べられないから」などと口実を作るような、心遣いの細やかな人だった。そういう人が、「慰安婦問題でいつまでも悪かったと言わされるのは嫌だ」「日本は悪くない」と、世の右傾化を歓迎する心象を持っているのか、と、私は驚きのような悲しみのようなものを感じたのだった。

翌日、経由したモスクワ空港で。BURGER KING と書いてある。