3月2日の夜10時ごろ、東京から昼の便でパリへ戻るはずだった私は、乗った飛行機が整備不良で、何時間も座っていた挙句に降りる羽目になり、送り込まれた日航ホテル成田の中華レストランで定食を食べていた。
テーブルには娘と息子のほかに一人、穏やかな笑顔の女性がいた。いったんは預け入れたスーツケースをまたずるずると引き取って、ホテル行きのバスを待っているとき、「よかったらこれ、いかがですか、お子さんたちに」と、おにぎりを分けてくれた優しい人だ。「子どもに持って帰るつもりで買ったんですけど、明日になると食べられないから」。彼女はそう言ったけれど、それがたった今、わたしたちのために買って来てくれたおにぎりであろうことは私には分かった。機内で混乱していたとき、家族に電話したいという彼女に携帯電話を貸してあげたので、お礼のつもりだったのだろう。搭乗前に空港のレストランで食事をしてから、もう8時間は経っていた。私はありがたくいただいた。
そんな縁で、もう今にも閉まりそうなレストランで、夕食をごいっしょしていたのだった。うちのよりも年上の子どもを三人、ドイツで育てたという女性だった。子どもの日本語や学校のことで話ははずんだが、そのうちに、ちょうど今回の日本滞在中に起こった、東京の図書館でのアンネ・フランク関係の本のページが切られる事件が話題になった。
― 私はどうも、あれは最近の日本の右傾化を快く思わない人たちが、警告のためにやっているんじゃないかと思うんです。
私は一瞬、なんのことやら分からなかった。
― それはまたどうして?
― 3年前の震災以来、日本は右傾化していますでしょ。私自身、自分が右傾化したなと思うんです。日本人がほんとに辛い目にあって、がんばっている。それでもう、昔のようではいられなくなりました。
― というと?
― ほら、昔はね、学校でも教えられたし、日本は中国や韓国の人に悪いことをしたって。そう思ってましたでしょ。そういうふうに簡単に思えなくなりました。私たちだって必死なんです。でも、そういう傾向に反感を持つ人たちが、外国に知らせようとしてやっているんじゃないでしょうか。
― ???
― 慰安婦問題をナチスと同じのように言うでしょう? でも、慰安婦問題はナチスとは違うんですよ。
― それはまあ、違うでしょうね。
― でも同じだって言う人たちは、慰安婦問題のことで日本をナチスと同一視して。
― けれど、アンネの日記を切り刻むのは、外国人に対して排外的なナショナリストがやっている、と考えることもできるのでは?
と、私は言ったけれども、確信はなかったし、その話題はそこで切り上げた。
彼女の話は私に深い印象を残した。
論理的には間違っている、なんだか滅茶苦茶なような気がしたけれど、なにか私の知らない真実を明かしているような気がしたのだ。
ひとは誰でも気の合う、話の通じやすい相手を自然と選んで友だちにするので、ふと気がつくと自分と感じ方、考え方の似た人間ばかりに取り囲まれている。不思議なことに、20年、30年も音信不通だった友だちでも、再会するとやはり話は通じやすく、まったく意見交換していなかったのに、昨日別れたばかりのように共感できたりする。そんなことにばかり出会っていると、自分とまったく感受性や思考パターンの違う人間がいることを忘れてしまう。ひょっとすると、自分たちのほうが、少数派であるのかもしれないのに。
飛行機が欠航になって成田のホテルで一夜を明かすような機会でもなければ、こんな話を聞けることはまずないのだ。
9・11がアメリカ人の間にナショナリストな感情を惹き起こしたように、3・11は日本人をナショナリズムに向かわせたのかもしれない。そう、私だって、あの日、津波にさらわれた同国人、個人的には誰一人知人のない同国人のために涙を流した日以来、原子力災害を抱えた母国を見つめて以来、私の出身国のことを、以前より余程考えるようになった。自分を日本人だと思い、住んではいない私の国のことを深く心配するようになった。あの日、私にとって、世界は変わってしまった。
私はナショナリストになったわけではないが、同じような母国への絆によって、ナショナリズムの方に引き寄せられた人たちが沢山いるのかもしれない。それはどこかでなにかが間違って繋がってしまったのではないかと、私には思えるのだけれど、それはそれでよくあるパターンなのかもしれない。
数日後だったか、斎藤美奈子がコラムで「自虐は余裕のあらわれである」というようなことを書いていた。なるほど。「自虐史観」は余裕の表れであったのか、と思った。「自虐」ではなく「自己批判」だと私は思うけれども、それは措く。長く不況に襲われた末に地震・津波という最大規模の自然災害と原発苛酷事故という未曾有の人的災害に見舞われた日本は、自分を批判的に見つめる余裕を失ったということなのだろうか。
そういう面はあるのかもしれない・・・
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