2019年12月18日水曜日

詩織さんが勝訴して嬉しいです

今日(と言っても日本時間ではもう昨日)、夜中の2時半に携帯電話のメッセージがチンと鳴って、叩き起こされました。

なんだ、こんな時間に、という不機嫌は、次の瞬間、知らせてくれた感謝に変わりました。

詩織さんが勝訴!

今回は情報があらゆるところで出ているので、私なんぞがまとめるまでもないのですが、簡単に書いておくと、

ジャーナリストの伊藤詩織さんが、元TBS記者の山口敬之を準強姦罪で訴えたにもかかわらず不起訴になり、検察審査会に不服申し立てをするも不起訴相当と判断されてしまったため、民事訴訟で訴えていたのがこの訴訟でした。

東京地裁の判決は、「酩酊状態で意識のない伊藤さんに対し、合意がないまま性行為をした」と全面的に詩織さんの主張を認め、山口氏に330万円の支払いを命じ、山口氏の反訴は棄却しました。

日本はほんとうに変になってしまっていると思っていたので、司法が良識ある判決を出してくれて、ほんとうに嬉しい。

日本で性犯罪に苦しんでいる全ての人、ひいては全ての女性たちのために道を開いてくれたことが嬉しい。

詩織さんが報われたことが嬉しい。

思えば2年半前でしたか、詩織さんが顔と名前を出して性犯罪を訴える記者会見を行ったのは! 私はその勇気に驚嘆して、なのにほとんど報道されないと聞いて憤激して、この人を支えなければと思ったのでした。

詩織さんは大変なバッシングに遭って、身の危険を感じて日本に住めないまでになってロンドンに去った。けれど同時に支える人たちの輪も広がって、世界中に報道もされて、この民事訴訟も闘って来た。

良かったです…

これで終わりではないようだけれど、
少しでも安らかな気持ちになって欲しい。
詩織さんを労いたいと思います。

ありがとうございました。






2019年12月2日月曜日

忠誠は何に向かって尽くすべきか

ヴェネチア映画祭で銀獅子賞(審査員賞)を取ったロマン・ポランスキーの新作『J’accuse(英題An officer and a spy)』を観た。

フランス語タイトルは、冤罪で島流しになったユダヤ人のドレフュス大尉を擁護して作家エミール・ゾラが新聞に載せた檄文のタイトルから取っているけれど、内容は軍の情報部で内通者を捜査していて真犯人を突き止め、ドレフュス大尉が無罪であることに気づいたピカール中佐が主人公の物語。内容を反映しているのは、どちらかといえば英語タイトルのほうか。

反ユダヤ主義に雄々しく立ち向かう人道的ヒーローを描く映画ではなく、自分が奉職するフランス軍が不正行為を犯すことが許せないピカール中佐の忠誠が、過失を隠蔽して軍の権威を守ろうとする軍幹部の保身とぶつかるというテーマの映画だった。

ピカール中佐は映画の最初の方で、軍学校時代の生徒だったドレフュスのことを回想する。自分に悪い評点をつけたのは自分がユダヤ人だからかと尋ねるドレフュスに、「ユダヤ人が好きかと訊かれれば私は嫌いだ。だが、それで差別をするかと言われたら、答えはNONだ」と言う。ピカールの立場は終始変わらない。

ドレフュスの冤罪を晴らそうとするのも、彼への同情と言うより、不正を行うのは軍のためにならないという考えからだ。軍は、ユダヤ人差別から、雑な捜査でドレフュスを裏切り者に仕立て上げてしまい、ドレフュスを有罪にした決め手となった証拠が偽造だと判明した後も、メンツを守るため、冤罪と認めようとしない。真実を訴えるピカールが邪魔になるとピカールも懲戒処分にしてしまう。

しかしピカールはゾラとジャーナリズムの力を借りて世間に真実を伝える。

観ながら私は、この映画がここまで日本の現状にアクチュアルに関わってくることに驚いていた。時の権力の言い成りになり、権力者の犯罪を隠蔽すべく証拠を隠滅したり、嘘をついたり、当然すべき追求をしなかったりしている国家公務員の多くに、一度、この映画を観て考えて欲しいと思った。

組織を、国家を、そして自分自身を、守っているのはどちらの方か。証拠をでっち上げ、過失を認めず、ドレフュスを有罪のままにしようとした軍幹部か? いや、軍と国家の名誉を救ったのはピカールの方だ。フランス軍に自浄能力があり、フランスが人種差別に屈しないことを示したのだから。

そしてついでに言えば、ピカール中佐はのちにクレマンソー内閣の軍事大臣の座まで上り詰めるのである。

2019年11月17日日曜日

パリで『主戦場』を観る



16日、パリのINALCO(国立東洋語東洋文化研究所)で、ミキ・デザキ監督のドキュメンタリー映画『主戦場』の上映会があったので行ってきました。

この映画は「慰安婦問題」をめぐって、日本の戦争犯罪を否定する修正論者たちと日本の戦争犯罪責任を直視しようとする論者たちの言い分を交錯させた、インタビューで構成されたドキュメンタリーです。どの陣営の人の言葉もそのまま伝えているので、とても公正な作品になっています。決して修正論者たちの言論を編集で改竄したりはしていません。その証拠に、デザキ監督を訴えた修正論者たちも訴えているのは「商業化するとは知らされていなかった」という点です。「私の言説が曲げられた」とは誰も言っていません。

夏の帰省中に東京で観たのですが、もう一度、パリで観て、とても幸運でした。

ひとつは、デザキ監督が来ていて、生の声でコメントが聞けたこと。
もうひとつは、フランス人歴史学者、政治学者のコメントが面白かったこと。

映画の紹介は、いろいろ、他のところでされていると思いますし、ぜひ見てくださいとお勧めするに止め、ここでは多くの方がおそらく触れる機会の少ない、フランスの研究者のコメントをご紹介したいと思います。

最初のフランス人のコメントは、韓国朝鮮史が専門の歴史学者、Alain Delissen 教授
この映画には「韓国側の吉見義明教授にあたるような専門家のインタビューが欠けている」という点を批判し、韓国では慰安婦問題がどういうものであるかという補足をしてくれました。『主戦場』は日本の問題、修正主義者とそれに対して歴史を直視しようとする人の戦いを主題にした映画なので、韓国の問題は主題を外れると言ってしまえばそれまでですが、日本のコンテクストだけ追っていると見えてこない指摘でしたので、とても面白い視点でした。
韓国で慰安婦問題が浮上したのは90年代初めのことで、それは韓国の民主化が背景にあった。韓国における慰安婦問題はアンチ日本というよりも、戦後を支配してきた保守勢力に対する民主勢力という対立構造を反映しているというお話でした。

もうひとつ、とても面白かったのは、シアンスポのKaroline Postel-Vinay教授のお話で、慰安婦問題が浮上してきた国際的コンテクストの指摘でした。それは1990年代に始まるユーゴ紛争旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所(ICTY)において初めて「紛争下性暴力」というものが裁かれた。それ以前に、紛争下性暴力が女性の人権侵害として裁かれた例はない、ということです。この文脈の中で、慰安婦問題が過去に遡って発見されたというのです。

この二つの指摘は、私に、「慰安婦像=平和の少女像」について認識を改めるきっかけをくれました。
というのは、デザキ監督の映画を鑑賞中、最初の方に出てくるアメリカでの「慰安婦像設置」をめぐる議論の中で、「平和の少女像は個別、日本を対象としたものではない。女性の人権侵害を告発するものだ」というものがあったのですが、その点に私は疑問を持ったのです。
その理由は、そういうわりには「慰安婦」は日本軍の所為のみに密接につながっていて、他国で同じような事例があるという指摘がない。むしろ、「国家、軍が関与して従軍慰安婦を組織し、強制的に慰安婦にさせたのは日本だけである」という主張が続いていたからです。
もしそれが日本軍オンリーの罪であるならば、慰安婦像を立てるという行為はやはりどうしても日本の過去の罪を告発するものにしかならないのではないか、普遍的に女性の人権侵害を告発し、より良い未来を祈る象徴となり得ないのではないか、そういうものをアメリカのような第三国で建立することにはやはり政治的な別の意味が付着してしまうのではないかと思ったのです。
でも、それは日本のことだけを視野に入れた見方で、慰安婦像は戦時性暴力の犠牲者の象徴であり、そういう犠牲者を出した韓国・朝鮮国内の家父長制、女性蔑視をも含めて告発するものだ、という見方もあるのだな、ということが、フランス人たちの話で分かりました。
ユーゴ紛争やあらゆる戦時下でのレイプ、現在も行われているダーイシュによる性奴隷など、すべての戦時性暴力を告発する像であるならば、全世界にそういうモニュメントを建てる意味はとてもあると思います。日本人が「建てないでくれ」などと言うべきものではなく、むしろ「従軍慰安婦」を産んだ国として改心し、率先してモニュメントを「改心の印」として建てることが日本の名誉になるのではないでしょうか。
ただ、問題は、平和の少女像がそういうものとなるためには、現時点では未だ世界的な検証や連帯が足りないのではないかということでした。

私はこの映画をフランス人の夫に見せるために連れて行ったのですが、行く道々、夫が「そういう慰安婦みたいなのは、フランスにもいたよ。ナポレオン戦争の頃から、組織的にやってたんだ」と言って、従軍慰安婦は日本だけが作った悪い制度かと思っていた私は衝撃を受けたのでした。だって、それならあの橋下徹が言っていたように「どこでもやっていた」ことになるではないか、と。それで「でもそれはプロの売春婦でしょ?」とか「自分の意思で行ったんでしょ?」とか「騙されて連れて行かれたわけじゃないよね?」とか「未成年じゃないよね?」とか言ってみたのですが、「そりゃまあ、基本的には職業的な売春婦だろうけどさ、分からないよ、現地調達したりしたりすれば。特に植民地なんかでは、何をやっていたか…」と歴史家ではない夫には答えられはしなかったのですが、調べればまずいことはいろいろやっているだろうと私も思いました。
 
映画を観て、フランス人学者さんたちの指摘を聞いたら、どこの国でもやっていたから日本がやっても許されると言うのではなく、反対に、他の国がやっていた慰安所も含めて、戦時性暴力を許すことのできない女性の人権侵害として、当時にはなかった観点から捉えることが、日本が慰安婦問題を正しく捉え直すきっかけになるのではないかと思ったのでした。



2019年9月26日木曜日

シラク逝く

今日、ジャック・シラク元大統領が亡くなった。
夜のテレビは大騒ぎ。エッフェル塔の照明も消えているという。

私はちょうどメトロに乗っていて、コンコルドで降りようとした時、
iPhoneがピンと鳴って、ニュースを知らせた。
12時くらいだったかしら。
ルモンドは何かというとニュースを送ってきて、ピンピンとうるさいので、あまり気にもとめずにそれでもメッセージを見たら、Jacques Chirac est mort. とあって、さすがにオッと声が出た。
そういえば病気だったなぁ、認知症も患ってたんじゃ?

けれどシラクが逝くというのは、私にはやはり感慨がある。
だって、私がフランスに来た最初の年に大統領選があって、ミッテランとシラクの今や有名な討論を、下宿先の家のテレビで観たのだもの。
当時はフランス語がまだあまり聞き取れなくて、どれほど分かったんだか、あんまり分からなかったと思う。
それでも下宿先のおばさんが、討論が終わった後、「シラクが優勢だったね」と満足げに頷いていたのを覚えている。地方のブルジョワで、シラク支持だった。
でも勝ったのはミッテランだった。1987年のことだ。

テレビで回顧番組を観ていたら、あのときこのときを思い出す。
シラクがとうとう大統領になって、核実験をした時のこと。
フランスがサッカーのW杯で優勝した時のこと。
内務大臣だったサルコジが、郊外の若者を「クズ」呼ばわりした時のこと。
2002年の大統領選で、社会党のジョスパンが第一回投票で落っこってしまい、寛容と平等のフランスを代表してシラクが再選された時のこと…
私にもそれなりにフランスで生きた時間が、積み重なっているのだ。

なんだかあの当時の方が、今よりいろんなことが分かっていたような気がする。
今よりもっと、明るい世界に生きていたような気がする。
まだテロもなかった。
フランスは自国の社会保障に誇りを持っていた。
イラク戦争に反対したフランスには矜持があった。
大統領は国民に愛されていた。

シラクが死んでしまって、また時代の移り変わりをズシリと感じる。
私も年を取ったのだと感じずにいられない。





2019年1月2日水曜日

門松や思へば一夜三十年

明けましておめでとうございます。

門松や思へば一夜三十年 

これは芭蕉の句。
友人がFacebookに「平成元年を迎えたのがパリに来て一年目。あれからもう30年になるのかという感慨」と書き添えたお年賀投稿をしていたので、この句を彼女のタイムラインに書き込んだのですが、

コメントを書き込んだ後で、改めてしみじみとこの句に感じ入ってしまいました。

さすが芭蕉だなぁ、正月ひとつ取っても、三十年の月日が駆け巡ってしまう。しかも思えば一夜と。

件の友人とはパリで出会いました。私もちょうど同じ頃パリに来たので、平成の丸々30年が、おおよそ私のパリでの30年に相当します。「あれから30年」という感慨は私も同じ。

30年前、1989年は、昭和天皇の崩御とベルリンの壁崩壊の年で、ベルリンの壁と同じ1961年に生まれた私は28歳でした。あの年、私は人生で初めて、世界が転換するのを感じたのでした。自分が生まれ育った世界が崩れ去り、これからの世界は違うものなのだと慄いた一方、赤ん坊だった自分が28歳にもなったのだから、それは世界も変わるのだろうと、自己中心的に納得したのを覚えています。私が生まれたのは戦争が終わって、「たった」16年しか経っていない時。それを考えれば、28年もあればどれほど世界は変わるだろう、と。

30年というのは、そんな時間です。いま、私の人生の二つ目の時期が平成という時代と共に終わろうとしています。世界は、日本もフランスも、それを取り巻く国々とその関係も大きく変わってしまったし、私自身の人生も大方がすでに過去になってしまいました。私に残されているのは、(長生きするとしても)最後の30年で、もう4回目はないでしょう。

今、私の中では、私自身の「思へば一夜三十年」がぐるぐるしています。最近、新たな光に当てて考え直したこともあります。けれど、それを言葉にするには、まだ時間とその他のものが必要なので、今日はただここに簡潔に、俳聖のこの句を記して、みなさんと共有したいと思います。

2018年12月19日水曜日

Gilets Jaunes と直接民主主義

 Gilets Jaunes (黄色いベスト)の運動は、新しい局面に入っています。先週土曜日(1215日)の5回目のデモは参加者人数が半減したので、マクロン大統領が打ち出した購買力上昇のための緊急対策に満足して運動は終息したと、もし日本の人たちが考えているとしたら、それは間違いだと思います。Gilets Jaunesが投げかけた波紋はもっとずっと大きいのです。
 5回目のデモの要求は、RIC (référendum d’initiative citoyenne 市民のイニシアチブによる国民投票)に焦点が絞られて来ました。これは、市民に、自分たちが選んだ法律を起草したり廃止したりする権利を与えよというもので、例えば議員や大統領の罷免などを可能にするそうです。また、国民生活や国の方針に関わる重要法案を、そうしたいと思えば国民が起草して、投票にかけて是非を問うことができるようになります。まずそういうシステムを憲法に書き込むべく憲法改正をせよというのです。具体的には、「独立した機関のコントロールの下で70万筆の署名を得た法案は国民投票にかけられる」とすると言っています。(辺野古の土砂投入を、沖縄の県民投票まで中断して待つよう日本政府に呼びかけて欲しいというトランプ米大統領への請願署名をちょっと思い出しますね)

 この前のブログにも少しだけ書いたけれど、Gilets Jaunes の運動は従来のデモとは異質なものでした(このことを、「黄色いベスト」のデモについて紹介した記事の中でも触れていないものが割と目についたので一言、注意を引いておきたいと思います)。その理由は、ひとつは担い手が政治色のない、地方の低所得の人たちだということです。また呼びかけがFacebookを使って自然発生的に行われていて、運動のリーダーがいない(運動の中でだんだん生まれてきたけれど)、デモの許可を取っていないことも付け加えておきます。けれども、一番大きな点は何と言っても、議会による代表制民主主義に代わる、直接民主主義を志向して、それを要求に掲げたことだと思います。
 デモというのはもともと市民が直接声を上げるという点で、直接民主主義につながる要素があります。けれど、デモで何かが決まるわけではないので直接民主主義そのものではありません。デモの要求を考慮しながら政権や議会が動くということで、民意が反映されにくい代表制民主主義の欠陥を補う手段と考えられます。署名運動やデモなどによって代表制民主主義の欠陥を補った形の民主主義は「参加民主主義」と呼ばれます。
 そこまでは従来のデモの範囲だと思うのですが、Gilets Jaunes は、現在の議会制民主主義では自分たちの意見は全く代表されていない、自分たちの政治に参加する権利(主権)は簒奪されてしまっていると感じて、「選挙を通して代表を選ぶ」以外の方法を提案しました。私は、暴動が激しかったという以上に、このことが革命的だと思いました。
 フランスは長い間、保守系の党と左翼系の党の政権交代でやって来ていたのですが、近年、既成政党はすっかり人々の支持を失なってしましました。それがはっきりと見えたのが前回の大統領選で、シラクやサルコジを出した保守系政党もミッテランやオランドを出した社会党も第一回投票で姿を消してしまい、決選投票は極右のルペンと俄か新党で議員の経験すらないマクロンの一騎打ちという異変が起こりました。
 既成政党への失望と極右政党への嫌悪と新し物好きの期待を一身に集めてマクロン大統領が誕生したのでしたが、既成政党の没落を背景にマクロンの政党が議会の多数も握りマクロンの親政のようになりました。だから、現行の政治に対するGilets Jaunesの不満は直接マクロンに向かいましたし、フランス国民は議会に何も期待を抱けなくなっているのです。

 Gilets Jaunes運動への対応として、マクロン大統領と政府は今後、Grand débat national (国民的大議論)を行うと宣言しました。まだ内容ははっきりしていませんが、「エコロジー移行」「税制」「国家組織」「民主主義と市民権」の4つのテーマについて広く意見聴取を行うとのことで、この中で、RICも対象になるでしょう。すでにテレビの討論番組などでは、スイスの直接民主制について専門家が話すなど、RICの可能性について話題になっています。

 あくまで代表制民主主義にこだわる意見から、RICの原則は認めても具体的にどう可能なのかを考える意見、近年の国民投票の性質、行うにあたっての危険性なども含め、とても興味深いです。

2018年12月11日火曜日

12月9日のパリの光景

 Gilets Jaunes (黄色いベスト)の4回目の大行動のあった128日の翌日、パリを見に行きました。

Champs-ÉlyséesのHSBC銀行


Champs-ÉlyséesのORANGE
  

Champs-Élyséesのドラッグストア




Bd. Haussemannの落書き


「終わりは近いぞマクロン」

「お前が道を渡るのを手伝ってやるよ」
マクロンが失業者に「道を渡ってカフェやレストランで聞けば必ず職が見つかる」と言って、
人々の顰蹙を買った事件に引っ掛けた当てこすり

 落書きのほとんどはマクロンの悪口で、嫌われているなあと実感しました。デモのスローガンも「マクロン辞めろ」が主でしたしね。

 昨日の月曜日、ずっと姿を現さなかったマクロンが事態を収拾するため、緊急対策を発表しました。最低賃金を2019年1月から100€アップ、年末の特別手当、残業代免税、年金が月2000€以下の者はCSG(社会保障関連税)値上げ据え置きなど、購買力アップのための政策を約束。

 デモの要求が通ることなどない日本を故国に持つ私などトロいので、これに先週決めた燃料税値上げ取りやめも含め、Gilets Jaunesは随分成果を上げたのでは、などと思うのですが、そんな風に思うのは、フランス人であればマクロンの取り巻きと中道と保守の一部くらいのようです。

 失業者には何の対策もない、最低賃金より少し上の給与所得者だって生活は苦しいのに対策がない、財源が税金だが、富裕層優遇のためになくした富裕税の復活については考えてない、などなど、全く不十分と言う声が大きい。そう言われればそれはそうだ。

 そんなわけでFacebookではまた土曜日のACT5が、すでに呼びかけられている。

 ひとつ私が思うのは、今回のGilets Jaunesの運動は、労組などが主導する、いつものデモと違って、ひょっとすると政府からいくつかの譲歩を勝ちとってよしと終わりにならない可能性がある性質のものかもしれないということ。

 生活苦と怒りに任せて、自然発生的に起こったこの運動には指導者がいない、要求も様々。ただ彼らが一致できるのは、反マクロン。

 また、マクロン自身が議会多数派であることを良いことに、議会を尊重しない独裁ぶりを発揮していたわけですが、そこに歯止めをかけるのはやはり議会でなく直接、民衆であったということも新しい。

 極右政党のルペンも極左政党のメランションも解散総選挙を訴えるのですが、何となくトンチンカンな感じがしないでもありません。

 ここからマクロンに対峙するために何が起こるのか。議会に力を取り戻させるという選択もありますが、既成政党が軒並み支持を失ってしまっている現在、どうなのでしょう。ひょっとすると直接民主制に近いものが生まれようとしているのでは、と思ってみたりもするのです。

******

追記 これを書いた日、ストラスブールでまたテロが起こりました。テロに狙われるようではデモなどしている場合でない、危険だということで、政府はデモの中止を呼びかけています。Gilets Jaunesはこれを拒絶したということですが。

また、マクロンの緊急対策発表の後、Gilets Jaunesの5回目の行動を支持する声は、これまでの70%から50%くらいにまで減りました(調査によって46%から54%)。
 



 

2018年12月1日土曜日

パリ燃ゆ

12月1日、パリは大変なことになりました。シャンゼリゼ大通り、オスマン通り(昨日は行っていたサル・プレイエルもすぐ近所)、オペラ通り、リヴォリ通りなど、馴染みのある通りで店が壊され、火災が起こり、催涙弾が投げられ、バリケードが築かれ… 燃料費高騰への抗議を発端に、様々な社会政策およびマクロンの辞職を要求するGilets Jaunes (黄色いベスト)運動の3回目のデモ。すでに先週も見受けられたデモ参加者の暴徒化がさらに広がり、午後9時時点で「怪我人が110人、火災が180数件、280人くらいが職務質問を受けた」だったか(確かでない)。「黄色いベスト」運動は地方でも行われていて、同じように暴動も広がっています。30年近く前にフランスに来た私も初めて見る光景です。





プレイエルのマリア・カラス

昨晩、サル・プレイエルでマリア・カラスを聴きました。ホログラムで蘇生された歌姫は、ものすごくリアルであると同時にどことなくこの世のものでない空気を漂わせ、指揮者から花を受け取ったかと思うと、照明が暗くなると同時に消滅したりして、本当に美しかった。コンサート・ホールで聴くカラスの声は、CDで聴くよりも豊かに私には聴こえました。周りの人たちは「一回見るぶんには面白いけど、気持ち悪いね」と言って、拍手をしない人もかなりいたようですが、私は墓の彼方のディーヴァに惜しみない拍手を送りました。マイケル・ジャクソンもすでにホログラムになっているそうだし、こういうテクノロジーが生まれたことは色々なことを考えさせますが、私たちが映画とともに生きてきたように、これからの人たちがホログラムとともに生きても不思議はないかなと思います。(ただ、こんなに電力エネルギーを使いすぎる生活を続けていると地球が滅びてしまうかもしれないからどこまで可能かという別の問題はあるけど。)


2018年10月8日月曜日

四つ葉探しの名人の話

 どこかの地方自治体で四つ葉のクローバーの植栽を作ったら、丸ごと盗まれてしまい、植え直したという記事を目にした。

 四つ葉のクローバーは幸運をもたらすという。それで記事のタイトルは「幸せを独り占めしないで」。しかし、ごっそり持って行く奴も持って行く奴だが、そもそも四つ葉のクローバーというのは、そんなにごっそり植わっているものだっただろうか?

 四つ葉のクローバーを見つけると幸運が舞い込むというのは、四つ葉のクローバーは珍しくて、なかなか見つからないという前提があっての話ではなかったか?

 そんなことを考えているうちに思い出した。
 私は子どもの頃、四つ葉のクローバー探しの名人だったのだ。
 ちょっと探せば必ず、見つけることができた。見つからないということはなかった。友だちと一緒に行けば大抵、私の方が先に見つけたし、たくさん見つけた。私は妙な才能があるな、幸運の星に生まれたのかしらと思ったのを覚えている。

 四つ葉探しを始めたのは、たしか小学校1年生の時だ。住んでいた団地の道を隔てた向こうに草原が広がっていて、シロツメグサやカラスノエンドウやアザミやヘビイチゴなどビッシリ生えていた。子供には格好の遊び場だった。そこは米軍のキャンプの端の端で、ちょっと行くと米兵の家族宿舎が点々と並ぶ立ち入り禁止区域になっていたのだが、端っこの端っこの空き地は大目に見られていたのか柵もなく自由に行き来ができたのだった。

 四つ葉のクローバーのことを最初に教えてくれたのは友人のお母さんだっただろうか。以来、子ども同士の遊びのレパートリーに、四つ葉探しも入って、時々、連れ立って探しに行った。私は暇に任せて一人で探してみることもあった。時には五つ葉、六つ葉のクローバーまで見つかったものだ。もちろん、四つ葉ほど簡単ではなかったが、この手で摘んだことは一度、二度ではない。

 四つ葉というのはたいてい、最後の四枚目の葉だけが小さい。すでに三枚の葉があったところに後から出てきたように、肩身狭そうにまだ二つ折りに閉じているものもある。絵やデザインに描かれるように四枚均等な大きさのものはとても珍しい。四枚目が開いていてかなり他の三枚の大きさに近いものはあるが、四枚が均等な大きさのものはほとんど見たことがない。

 四つ葉のクローバーはどうしてできるかというと、二つ理由があって、一つは葉になる前の原基という葉っぱの赤ちゃん時代に、踏みつけられるなどで傷がつくと三つになるはずのものが狂って四つになってしまったりするのだそうである。もう一つは遺伝子突然変異だそうだ。冒頭のゴッソリ持って行かれた四つ葉のクローバーの株なんてものは、おそらく遺伝子操作で人工的に作ったものなのだろう。

 見つけた四つ葉のクローバーは、家に持って帰って、よく押し葉にした。厚みがすっかりなくなって紙のように薄く平たくなった四つ葉のクローバーを触るのが好きだった。けれどもいつの間にか、押し葉にしたクローバーはどこかへ行ってしまう。あんなに何度も押し葉にしたのに、どうして一枚も残っていないのだろう。

 それにあんなにたくさんの四つ葉を抱えて暮らしていたのに、特に幸運が舞い込んだ覚えがない。とは言うものの、私は事故にも遭わず、病気にもならず、親きょうだいも達者で、特別いじめられもせず、お腹をすかせたこともなく、本人がその時どう思っていたかは別として、今から思えば総じてたいへん幸せな子ども時代を過ごしたのだから、四つ葉のご利益は十分だったのかもしれない。

 友だちと四つ葉探しに夢中になった、そんな年齢をいつか過ぎてしまっても、一人で探してみる習慣はなくならなかった。米軍キャンプ(とその返還後の跡地)は、私にとって中学校に通う通学路だったから、帰り道で野原に座り込むこともたまにはあったし、道端に目を馳せることもないではなかった。遠い高校にバスや電車を乗り継いで通うようになっても、一人で空を眺めに行って草の中に体を埋めたりした折、四つ葉のクローバーをふと探してみようと思うことはあった。いつでもやっていたわけではないけれど、私の才能はまだ枯れていないか、時々試してみたくなったのだ。もちろん、そんなに根を詰めて探すことはなかったから、小学生の頃のように大量の四つ葉を見つけて帰ったりはしなかった。しばらく探して1本見つけると、それで満足したものだ。

 四つ葉のクローバーが見つからなくなったのは、一体いつの頃からだろう。はっきりしているのは、今では一生懸命探しても、大抵一つも見つからないということだ。それも最近のことではない。おや、今日はこんなに探したのに見つからない、そんなことが起こるようになったのはいつだっただろう。少なくとも、30代の私には、もう四つ葉探しの名人の片鱗もなかった。

 私は自分の子ども時代のあの不思議な力が完全に自分を去ってしまったことをぼんやりと悲しく思ったが、そんなものかもしれないと思い、深くは考えなかった。四つ葉のクローバーが見つからなくても、人生、まったく困りはしない。

 そうして四つ葉のクローバーのことなどすっかり忘れて何年もが過ぎ、2011年が巡って来た。東日本大震災に由来する原発事故のために、原発から放出される放射能のニュースに敏感になっていた時、1960、70年代は、原水爆実験のため、空気中にかなりの放射能が含まれていたという情報を知った。私の子ども時代にピッタリ重なる時期だ。

 私は考え直してみた。ひょっとしたら、四つ葉のクローバーがあんなにも簡単に見つかったのは、私に特殊な能力があったのではなくて、あの土地に実際、四つ葉や五つ葉や六つ葉のクローバーがたくさんあったからではないか? 私たちが踏みつけて四つ葉や五つ葉を作っていたのかもしれないし、もしかしたら密かに遺伝子に傷が付いていたのかもしれない。 

 高校を卒業した私は引越しをして、以来、あの野原に戻ったことはない。

2018年10月3日水曜日

かのこしぼりのちゅうやおび

「ちゅうやおび」とは何だろう?

今を去る半世紀ほども昔の話
幼稚園のお遊戯会で踊ったダンスの音楽
というより歌の歌詞が
意味もわからないまま耳に染み込んだ。

・・・・おにんぎょは
かのこしぼりのちゅうやおび
おんきょうきょうとのかみきょうの
いとしおとめがこしらえた
ふりそでにんぎょうはかわいいな

振袖人形の歌だということは知っていた。
愛し乙女が拵えた人形というのも分かる。
京都の上京の乙女が作ったのだろうというのも見当がついた。

ただ「かのこしぼりのちゅうやおび」がわからなかった。

そうして50数年が過ぎた。

ところが最近のこと
ネットで総鹿の子絞りの名古屋帯をしみじみ見ていて
突然、ああ、あれは「鹿の子絞り」の「帯」だということに思い当たった。

だが、「ちゅうやおび」は最後まで分からなかった。

昨日、ふと思い立って調べてみたら、インターネットのありがたさ、
半世紀もの間、知らずに暮らしてきた知識がたちどころに我がものになった。

「ちゅうやおび」は「昼夜帯」なのだそうだ。
今でいうリバーシブルの帯で、元は片面を白い博多織、もう片面を黒繻子の生地で作ったので、昼と夜と名付けたのだという。江戸の町娘が黒い方を角出しにして締めていたようだ。

なるほど謎は解けた。
昼夜帯という呼び方も物自体もなかなか趣があると思った。

ところが、なんだろう、50年も物を知らず、ただ音だけで「ちゅうやおび」という不可思議なものと脳が認識してきてしまったものは、かんたんには頭を去らない。

「ちゅうや」と言えば私の頭に浮かぶのは「中也」あるいは「宙也」で
なんとなく宇宙空間の虚空に浮いているような感じがしている。

それに「帯」がついていると、着物の帯よりは銀河のような、メビウスの環のようなものを、はっきりとではないのだが、想像してしまう。

「ちゅうやおび」は私にとってなんとなく「カンパネルラ」みたいな語彙の仲間なのだ。

「かのこしぼり」も長い間、「鹿の子絞り」とは結びついていなかったのだが、今は8割がた結びついてきて、あの幾何学的なようでいて幾何学的でない小さな点々が、またなんとなく銀河の星に結びついてきている。「昼夜帯」の知識もこれから私の「ちゅうやおび」と混じり合いつつ、昼と夜とが自在に交替するメビウスの環を喚起してくれるのだろうか。

「かのこしぼりのちゅうやおび」が欲しいな。

いつか本当に美しい「鹿の子絞りの昼夜帯」を手に入れたら
「かのこしぼりのちゅうやおび」の片鱗でも、感じることができるだろうか。

2018年10月1日月曜日

アズナヴール

シャルル・アズナヴールが亡くなりました。94歳。お年だから仕方がないとは思うけれど悲しいですね。






Emmenez-moi 
Au bout de la terre 
Emmenez-moi 
Au pays des merveilles 
II me semble que la misère 
Serait moins pénible au soleil. 

お久しぶりです

ブログを全然書かなくなってしまっているのを反省して、また書こうと思っています。

書かなくなってしまった理由は、毎日、日本でフランスでまた世界で、恐ろしいことや許しがたいことが起こるので、そうしたことに言葉を失ったり、一々反応して何かを書くには時間がない、一方、そうしたことに触れないで、自分の生活のこと、お気楽なことばかり書くのはどうなのかと思い、つい沈黙してしまうためでした。

でも、そうして黙っていれば良いというものでもないし、短く簡単なものでも書いていこうと思います。

昨日は、沖縄知事選で玉城デニー候補が当選して、とても嬉しかったです。
日本政府の強権に押しつぶされず、見事な抵抗をした沖縄の方々に深い尊敬の念を感じます。日本が変わっていく、日本の民主主義が育っていく足がかりが沖縄から生まれたように思います。




2018年1月26日金曜日

羊男になりました

「Soldeになってから」と子どもたちが言うので、ようやく今日になってクリスマスプレゼントが届きました。

去年のこと、ムスメが休みの日に怠惰に一日着たままでいるコンビネゾンのパジャマが楽そうでいいなと言ったら、ムスメが即座に
「クリスマスに買ってあげる。ぶたがいい? パンダがいい?」

私は下着チェーンEtamで見た、スエットスーツみたいなのを想像していたので、
「ぶたでもパンダでもないのはないの?」と訊いたら、

「あるけどあったかくない。フリースのあったかいのが欲しいなら動物選んで」

というわけで、ネットのカタログをにらみながら、パンダかぶたか、うさぎにするかはたまたシロクマにするか悩みました。

熟慮の末選んだのはうさぎだったのだけど、ショップに行ったらなくて代わりに羊があった。
サイズもちょうどよいSが売り切れだったので、ひとつ大きいMを頼みました。

でも届くまで想像もしていませんでした。



羊男になった!


2018年1月10日水曜日

2018年の初めに

明けましておめでとう。
と言える日を過ぎてしまってごめんなさい。


初日

クリスマス休暇は明け、子どもたちも学校に戻り、普通の日々が始まっています。

クリスマスは慎ましくも家族で少しだけ豪華な食卓を囲みましたが、年越しは家でカンフー映画を観て過ごし(私の2018年最初の映画が『カンフー・サッカー』というのは!)、お正月はお雑煮だけは祝いましたが、おせち料理はもとより作らなかったし、公現祭(16日、三人の博士が生まれたキリストを見に馬小屋にたどり着いた日ということで、クリスマスの一連の行事の最後)の恒例のガレット・デ・ロワは家族が嫌いなので食べなかったし、七草粥を作ろうかと思ったけれど二草しかなかったので、どうしたものか迷ったあげく、やはり二草では健康維持にも役立たなかろうと作りませんでした。年賀状ももうほとんどいただきもしないので出さず、ブログのご挨拶も今日になってしまいました。

こうしてちょっと考えると、なんとなく軽く人間失格のような気がしてきます。この落ち込んだ気分を変えるには、明日の鏡開きにお汁粉をつくるべきだろうか… 鏡餅を持っていないのだけど。


歳を取ったということなのでしょうか。年が改まることが、年々、ちっともめでたい気がしなくなってしまっています。父の命日が1229日ということも少し影響しているのでしょうか。そうかもしれないということで少しだけ言い訳にさせてください。

2017年は、一冊の本も出せず、何ということもしないままに過ぎた、今となっては痛恨の年でした。誇れることといったら、夏に始めた水泳ダイエットをやめずに続けていることくらいか… 
水泳はやってもやっても体重は減らず、ダイエットとしては成功していないかもしれないのですが、体重は減らない代わりストローク数は確実に減りました。考えてみれば、水泳をやれば水泳が上達するのであって体重が減るかどうかはそこまで直接的な関係はないのかもしれません…
やっているうちに段々、ストローク数が減るのが楽しみになり、ストリームラインというのを習得したらしくスーッと前に進むようになって、あまり疲れず泳げるようになったので、今ではダイエットは副次的効果として密かに期待はしつつも、メインは健康維持と割り切って通っています。
そして今や、自分はダメな人間なんじゃないかという、ネガティブ思考が時々胸をよぎるときに、私を支えてくれるひとつのよすがともなっています。

なんともお祭りっぽくない年末年始でしたが、三が日は何をして過ごしていたかというと、息子に頼まれて数学の宿題を手伝ったり、チェスの勉強をしたりしていました。数学は家庭教師代を浮かせるため、チェスは息子の挑戦を受けて立つためです。
まさかこの歳になって高校で脱落した数学をやり直すとは思いませんでしたが、息子のためとなると献身的な母親は、けっこう難しかった宿題を全問解きました。40年前にこの熱意があれば国立大学も行けたかも、と40年前に息子がいなかったことをちょっと悔やみました。チェスは息子に2回連続して負けましたが、ふだん使わない脳みそを使ったせいか、痛いわけではないけれどなんとなく脳の筋肉痛のようなものを感じ、これをやっているとニューロンが殖えるのではないか、と感じました。

2017年10月12日木曜日

『温かいスープ』の感想

 この文章について書こうと思ったのは、もう4年も前のことだ。当時、ムスメが日本でいう中3の年齢で、大使館でもらってきた国語の教科書に載っていたのをふと読んだ。面白かったのでそのことを書こうと思ったのだ。
 なのに書かないままもう4年… 怠け者の私の頭のなかには、こういうものが、いっぱいある。買ったのに読んでいない積読状態の本と同じくらい。
 しかし今日は書くことにしよう。ちょうど昨日、ムスコが日本語の家庭教師の先生とこの文章を読んでいたからだ。その文章とは、
今道友信先生の『温かいスープ』 (←読んでみたい方はこちらのリンクをどうぞ)。

 1957年に今道先生がパリの大学で非常勤講師を務めていたときの話だそうだ。
 現在、パリに住んでいる私が何より興味を惹かれたのは、今道先生が下宿を求めて門を叩いた家で、「戦争で義弟が日本人に殺されているので、日本人だけは下宿させたくない」と断られたというエピソードだ。

 これは隔世の感がある。今日、日本はフランス人にとっては、良いイメージの国で、「今度の旅行は日本に行きたい」というフランス人はザラにいるし、日本の漫画の翻訳量はすごい。日本のアニメやSUSHIは大人気だ。いや、私がフランスに来た1980年代だって、今ほど好感はされていなかったとはいえ、「日本人だけは下宿させたくない」などという話は聞いたことがない。1957年には日本人は嫌われていた。そういう時代だったのか、と知ったことが私には貴重だった。

 そう、この文章で断トツにインパクトがあるのは、冒頭のふたつの段落である。二つ目の段落は上に書いた下宿のエピソードだから紹介は済んだことにして、書き出しの部分はこうだ。

 第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、1945年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなくてはならない。そのような状況であったから、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日本人もみじめな時代があった。

 これはすごい、と私は思った。中学三年の教科書には、こういうことがちゃんと書かれているのだ! 恥ずかしながら私は、日本がオリンピックに出られなかったことを知らなかった。調べたら、1952年のヘルシンキ・オリンピックが日本が16年ぶりに出場できた夏季オリンピックだそうだ。
「かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなくてはならない」
 この部分がなにを言っているのか、全国の国語の先生が、きちんと中学生たちに説明しているとしたら、それはとても良いことだ。「独善的」という言葉の意味となぜかつての日本の民族主義が「独善的」だったかを先生といっしょにムスコに説明しながら、私はそう思った。

 しかし、私が感銘を受けた冒頭部分は、この文章全体から見ればイントロダクションに過ぎなかった。第一段落の結びの文は、
「その頃の体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き記しておきたい」となっていて、素晴らしい冒頭部分は、どうもただの時代背景の説明であったらしい。私はこのことを少々残念に思う。

 『温かいスープ』を改めて読んでみると、この文章のテーマは「国際性」ということであるらしい。今道先生は、第一段落で、「日本と日本人のおかれた国際的にみじめな状況」という一般論から始め、第二段落で、それをご自身のパリでのみじめな状況という例に収斂させる。そして第三段落以降で、ご自身のパリでの経験、心温まる経験を対置させる。そして最後にまた、自分の体験を一般論に敷衍して「国際性とはなにか」を結論する。こういう構造になっているのだ。ちなみに結論部分は、

 国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じらいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。           

 とまとめられていて、試験問題で「筆者は国際性をどういうものと捉えていますか」とか「筆者はこの文章で何が訴えたかったのでしょうか」とでも問われれば、間違いなくここからコピペしなければならないような文章が並んでいる。

 しかし、奇妙なことに、この味わい深く感動的な『温かいスープ』という文章のなかで、最も印象に残らないのは、明らかに、この結論部分なのだ。
 4年前に読んで面白いと思っていたこの文章、私の記憶の中の文章に、「国際性」の三文字はなかった。そんなものは、すっかり忘れ果てるほど、印象が薄かったのだ。

 その代わりに、はっきりと記憶に残っていたのは、通い詰めたパリの小さいレストランで、お金がなくて軽いものしか注文できなかった今道先生に、店の人がおごってくれた「温かいスープ」のこと。

 私にとってこの文章は、「戦後、国際的に旧敵国として日本がマイナスの評価を受けていた時代にパリに渡った貧しい留学生(講師だったというから正確には留学ではないが、そのあたりは記憶では飛んでいた)が、通いつめたレストランで親切にしてもらったお話」だった。

 私は孤独な留学生だった体験も持っているし、家族を伴わずに在外研究でパリにいた父が、味気ない自炊に嫌気がさすと美味しいもの食べたさに一人で通っていた小さなイタリア料理店で、顔なじみになり親切にされていたのも見聞きしている。今道先生がそのレストランでどんなに心和んだか、分かるような気がする。

 寒い戸外と温かいレストランの内部、街路から見たなら、ぽっと明るい灯が点っているような場所、その魂のような温かいオニオン・グラタン・スープ。それは本当にみごとなイメージで、読む者の心を暖かくする。

 なので今回、読み直してみて、結論に関してだけは、「このとってつけたようなつまらない結論はいったいなんだろう」と考えてしまった。

 結論の直前の段落は良い。

こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私がフランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。

 ここには、素直な感動が溢れている。なのにどうして、あの妙な「国際性」云々(うんぬん)の結論が続いてしまうのだろう。「国際性」という奇妙な言葉自体、定義されていないし、人情が深く沁み入る、とても幸せな体験をしたというエピソードがどうしてその不思議な概念に結びつくのか、まったく書かれていない。具体的なエピソードから、抽象的な一般論に飛躍するとき、今道先生は失敗していないだろうか。

ここは「私はそのとき、あの人たちにとって、お金のない、お腹を空かせた、馴染みのお客であって、旧敵国日本の人間ではなかった。そして縁のない親しみの持てない国の出身者であっても、そこでお腹を空かせている一人の人間として暖かい手を差し伸べてくれる人がいるということに、私は人間というものへの希望を見いだしたのである。」とでもいうような結論が来るべきなのではないかと私は思った。

 もうひとつ、疑問に思ったのはパンの話だ。お金がなくてオムレツしか注文できない今道先生のところに、ある時から給仕の娘がパンを二人前持って来てくれるようになる、という件だ。二人前持って来てくれるけれどお勘定は一人前… 
 良い話なのだが、私の知っている限り、フランスのレストランではパンにお代は取らないのだ。日本では、一食につき、ついてくるパンはフランスパン一切れとロールパン一つで、それ以上食べたいときは追加料金を取られるけれど。
 1957年には、パリでもパンにお金を取っていたのかな〜、とぼんやり考えるけれど、少なくとも私の知っている1980年代以降のフランスでは、パンはいくらでも追加してもらえる。
 なので、今道先生のところにも、パンのかごが空になっていたのでもう一つ持って来てくれたというだけなんではないかな、と思いました。


 と洩らしたところ、ムスコは即座に「でも、スープを持って来てくれたのは親切なんだよ」と返し、だから、論旨に問題はないと今道先生を弁護しました。もちろん、私もそう思っていますよ。